08/01/25

古井由吉の『白暗淵』は、その気になった時にちょこっとずつ読んでいて、日記を調べたら読み始めたのが去年の12月21日だから、もう一ヶ月以上もかけて、ちびちび読み進めていて、最近ではもう先に進む気があまりない感じでゆっくり読んでいるのだけど、今日「潮の変わり目」を読んで、これはスゲーと思った。
古井由吉の小説を読んでいる時にいつも見えてくるのは、この小説を書いている作家の後ろ姿のようなもので、つまり、刻み付けるように原稿用紙に一文字書き、一文書いては、ふうっと一息ついたり、興に乗って次へ進んだり、一旦立ち上がってトイレに立ったりお茶を煎れたりしながら、じわじわと書き継いでいる姿なのだった。それって結局、これだけ時間や空間や人称をぐだぐだにしても、そこにいるのは古井由吉たった一人で、そこに収斂されるんじゃないか、という感触でもあるのだが。
古井由吉の小説は、どれも同じといえば同じようなのもで、そこにあるのは、ちょっとした入り方の違い、息継ぎや息の長さの違い、距離の操作のタッチの違い、仕種の違いとか、そのくらいのもので、つまり、同じ人が同じことを長年ずっとやりつづけていて、その同じことのその都度の振動の微妙な違いを感知するというような読み方になる。毎晩同じことを習慣としてつづけていても、その晩毎に微妙に調子がことなるものだし、習慣とはそもそも、その微妙な事なりを計測するためにこそあるかのようだ、だからその文章の呼吸は、そのままそれを書き継いでいる作家の呼吸の記録ようにも感じる。初出の一覧をみると、年に二月くらいのペースで休みつつも、それ以外は毎月一本という律儀なペースで、ここに収録された連作(?)は書かれている。そしておそらく、この作家は、そのようにしてもう何十年も書き続けているのだろう。ぼくが読む一編は、何十年もの間つづけられた習慣の、「ある晩」のバージョンということになろう。
『白暗淵』を読んでいて感じたのは、わりと頻繁に「見得を切」っているという感じだ。空間とか時間とかをかなりぐだぐたにしつつ、ある部分で唐突に見得を切って決めてみせる、みたいな。ぐだぐたな流れがつづいて、ふと改行があったかと思えば、次の二行がやたら「キメキメ」だったりする。その見得を切る感じが、ちょっと俗っぽいようにも感じられつつも、何度かに一度は、その見得がグサッときて、おおーっ、と思う。部分部分で、ここは凄いとか、これはちょっと臭いんじゃないか(「女」がでてくると割と型に流れる感じがする)とか、この手は使い過ぎじゃんとか思いつつも読み進めてゆくと、「潮の変わり目」みたいな「スゲーッ」というところまで跳躍している作品にぶつかる。このような、何度かに一度の大きな跳躍のために、毎晩の習慣は持続される必要があるのだろう。
「潮の変わり目」は、読みながらだんだんこちらのテンションがあがってきて、これは一体どこまで行っちゃうのだろうと興奮していると、終盤で「船」が出て来るところで、「えーっ、そんな分かりやすいイメージに流れちゃうの」と一旦ガクッとくるのだけど、その後また、それ以前とはちょっと違う感じて盛り返して、予想外の最後にまでつれてゆかれる。それもまた凄い。まだ二編のこっているのだけど、こんなの読んじゃうとこちらが息切れしてしまって、簡単に次には行けなくなる。