●良い(面白い)作品というのは、その作品自身が自分を測るため(だけ)の評価基準を新たにつくりだしているような作品のことで、事前にある評価軸なり文脈なりのなかで、それに照らし合わせて、これは85点くらい行ってるからよい作品で、こちらは37点だからダメだとかいうことではない。ぼくは基本的に、85点だとか37点だとかいうことにあまり興味がない。一応、礼儀として85点の作品に対して「立派ですね」くらいのことは言うかもしれないけど、そんなのどっちだって大した違いはないと思っている。
勿論、事前に既にある評価基準ではなく、その作品自身が作りだした評価基準のなかでも85点と37点の違いっていうのがあって、その違いのことを上手い、下手というのかもしれない。いや、それはいわゆる「完成度」っていうやつで、そんな簡単なことじゃないか。その作品自身がつくり出した評価基準にさえ属さない、ある根底的な、世界に対する(接触する)態度の柔軟さや軽やかさのようなものがあって、そういうものに触れている感じを「上手い」と言うのだ、と言うべきか。
だとすると、上手い、下手という基準は、作品にも、それを評価する基準にも先行し、独立してある何かということになる。上手い、下手は、作品を測る基準なのではなく、その手前にあって、作品を導く、世界に触れる技術、徴候と索引としての世界に働きかける手つきにかかわることなのではないか。
●例えば、上手な選手は必ずしも「勝つ」選手ではない。上手と勝つとのどちらが偉い(正しい)のかという話ではなく、そこには異なる原理(基準)がある、ということ。「勝つ」とは、より現実的、現世的な基準であり、「上手」は、必ずしもそれとは一致しない。ここで言う「上手」とは、いわゆるテクニシャンとか試合巧者ということとは違う(それはむしろ「勝つ」にかかわる)。ナガシマが「きれいな打球だ」とか言うようなもののこと。