●本当にどうでもいい話だが、何かに触れてとても強く心を動かされたのに、その感動について語る言葉が見つからない時の慣用表現として「語彙力がない」というフレーズが使われるのを度々みるのだが、これはとても良くない習慣(表現)だと思う。
心を動かされたのに、それについてうまく言えないのは、語彙力がないのではなく、表現力がない(表現力が足りない)からだろう。それは、語彙や知識の「量」の問題ではない。表現力が充分にあれば、語彙や知識が足りなくても言いたいことはかなり言えるし、語彙や知識が豊富でも、表現力がなければ凡庸なことしか言えない(自分が言いたいことに到達しない)。
(この慣用表現に表れている「表現力」と「語彙力」の―半ば意図的とすら感じられる―取り違えからは、とても根深い「良くないもの」を感じる。)
そしてまた、この「表現力」という言葉にも注意が必要だ。表現力、歌唱力、演技力など、「力」のつく言葉は、あたかもそれが定量的に測れる量であるかのような(そしてそれが個人によって所有される能力であるかのような)錯覚を与えてしまう。それによって例えば、「この十人の中で誰が一番歌唱力が高いか」などという何の意味もない問いが問われてしまったりする。
「この曲を誰が一番魅力的に歌えるか (この曲を歌うのには誰が一番適当か)」という問いなら意味があるだろう。あるいは、それほど意味があるとは思えないが、「誰が一番表現できることの幅が広いか」という問いならあり得るかもしれない(ただ、表現の幅の広い人が、必ずしも優れた表現をするとは限らないというのも、表現における常識の一つだろう、「これしかできない人」の「これ」こそが最も強いと言うことはしばしばある)。そしてその答えは決して一つには決まらない。明らかにダメなものはあるとしても、最も優れたものを客観的(一義的)に決めることはできない。視点、文脈(背景)、好みや、それらの重複割合などによって、答えはブレる。
いやいや、この「答え」という発想がそもそも間違っている。表現に先立って、何が一番優れているかを決める外的基準があるのではなく、ある表現がその都度ごとに、どのような組成を持ち、どのような質を持ち、どのような強さを持ち、どのような背景や必然性を持っているのかということだけが問題なのだ。
(高い表現力を持つ人が、優れた表現をするのではなく、優れた表現の中に、高い表現力が認められる、のだ。)
表現に先立って評価基準があり、その評価基準のなかで高得点を目指すのではなく、表現は、その(背景を含めた)表現自体のあり方が自らについての評価基準を作り出す。何にしろ何かしらの表現を受け取る時には、そのようなものとして受け取らなければならないというのが、ぼくにとっての表現に対する倫理だ。
(表現は、背景によってその意味が変わる、というとても重要なことも見逃されがちだ。)
だから、「表現力」といった、予め規定された、定量的に計測できるような力(能力)があるのではなく、表現へ向けてその都度なされる探索への指向と努力、その柔軟さや強さや執拗さがあり、結果としてのその成否があると言うことだ。
(とはいえ、何にしろ「上手い」と言うしかない何かを持つ人がいる、ということは否定できない。)