●お知らせ。「週刊文春」10月28日号に、『優しいおとな』(桐野夏生)の短い書評を書いてます。
●最終日というので、新宿まで『島田陽子に逢いたい』(いまおかしんじ)を観に行こうと思っていたのだが、『水死』(大江健三郎)を最後まで読んだら「負のパワー」にやられてしまって、そんな気分ではなくなってしまたった。18日の日記には、「最後まで読まない」というのはどうだろう、とか書いておいて、けっきょく、最後まで読んでしまった。作品が「完結したものとしてある」ということによって生まれる非常に強力でネガティブな力に、どのように抗うことが出来るのか。
いくつか受け入れがたいところがあるとはいえ、途中までは、この小説の緊迫した力のせめぎ合いはやはりすごいもので、面白くて仕方がないという感じで読み進めるのだが、最後の最後で台無しになる。しかしそれなら、読む側で勝手に、最後だけなかったことにすればいいのではないか。そうすれば、なにもこんなに打ちひしがれるようなダメージを受けずにすむのではないか。だいたいぼくは、この小説に対してなにがしかの責任を負っているわけではなく、無責任な一読者に過ぎないではないか。しかし、そうはいかないのが、完結するということの力であり、終幕の力であり、いままで確定しないままで開かれていたものの意味の決算がなされるということの力であるのだ。最後まで読んでしまった以上、最後だけをなかったことには出来なくて、その最後は、それ以前のすべての部分に遡行的な影響を及ぼしてしまう。
(『水死』を最初に読んだ時の感想 http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20100105)
●それでなんか調子が狂ってしまって、夜、なかなか眠れなくて、眠るために強いアルコールを飲んでも、へんに頭に血が上るばかりで酔いもせず、朝方まで何をするでもなく起きていることになって、明け方になってから、夢ばかりたくさん見る浅くて短い眠りを、ようやく眠ることが出来たのだった。こんなことなら、映画を観に行っていればよかった。