●岡崎乾二郎は中井正一をひきつつ、確信と主張の乖離について語る。(「國文学」2004・1)人は、外で雨が降っていると知ったとしても、わざわざそれを発語しないで、ただそうだと確信する。人が「雨が降っている」と発語する時、それはたんに確信を口にしているのではなく、確信とは別の主張という行為をしているだ、と。ここで、確信と主張との対応関係は一定のものではない。人は確信とは関係なく、別のことを主張することが出来る。岡崎氏はそこからヴィトゲンシュタインへとつなげる。「雨が降っている。だが私はそれを信じない。」ここで言われていることは、いわば知覚と確信の乖離とでも言えるだろう。知覚は私に雨が降っていることを告げるが、私はそれを信じない。これは別に特別のことではないだろう。例えば目の錯覚を示すテストがある。同じ長さの線が、一方は長く見えて、もう一方は短く見える。この時、その錯覚のからくりを知っているとすれば、あきらかに私の知覚は一方が長いと私に告げているのに、私はそれを信じはしないだろう。知覚をすることと、それを確信することとは、必ずしもきれいに対応するわけではない。おそらく動物であれば、知覚することと確信することと主張(行動)することとの対応関係は、比較的安定している(つまり、もともと設定されている)だろう。しかし人はその対応関係が揺らいでいる。「雨が降っている。」という単純な発語の場においても、「私の知覚は雨が降っていると告げている/だが私はそれを信じない/しかし私は雨が降っていると主張する」というような主体の分裂が孕まれているかもしれないのだ。(これは岡崎氏の発言の正確な要約ではありません。)
●これをもう少し広げて考えてみる。例えば、客観的にみればあきらかに胡散臭いことを言っていると分かるのに、それでもその人の言うことを信じてしまう事がある。あるいは、2次元オタクがあきらかに「絵」であることが分かっているのに、そのキャラクターに性的な感情、あるいは恋愛感情さえ抱いてしまう事もあるだろう。この時、人はそれが胡散臭いことや「絵」でしかないことを知っていないわけではないのだが、しかし確信(リアリティ)はそのような認識とは別の場所からやってくる。
●ここで、知覚と確信と主張(行動)を分離して考えることが出来ると言ったとしても、それはこれらのものをバラバラに切り離して扱えるということではないだろう。知覚と確信と主張とは、何らかの関係によって密接に結びついているはずで、そうでなければ現実的な世界(環境・状況)に対応して自らの身体を生かしてゆくことが出来なくなってしまう。だがその関係の有り様や対応の仕方は決して予め完全に決定されてはいないし、それほど安定しているわけではないだろう。常に主体は分離しているのだが、それをその都度きわめてあやういやり方で束ねる(代表させる)ことで、何とかやっているのだろう。どのような素朴な人物だろうと、どのような単純な発語であろうと、そこには主体の分裂の徴があり、不安定さや破綻の危機がつきまとっている。
●知覚とは、感覚器官が外部(状況)から得た刺激(データ)がひとまとまりの感覚として結像したもので、確信とは、状況が実際のそのようなものであると判断を下すことで、主張とは、そのように判断された状況のなかでどう振る舞うかということだと言い換えられるだろう。判断を下すと言っても、あるデータをどのようにでも読み替えられるということではなく、あきらかにあるデータ(ある像)が見えているにも関わらず、どうしてもそれが現実であると実感できないというように、自分で自由に決められるものではない。つまり、ある確信(実感)が「図」であるとすれば、その確信を「地」として裏から支えている「確信を与える形式」というものが私の意志とは無関係に(秘密裏に)作動していると考えられるだろう。例えば、目に見えるものをどんなに細密に写したとしても、その描写が必ずしもリアリティをもつとは限らない。その時、ある描写(知覚)にリアリティ(確信)を与えているものが、目に見えないところで作動している「地」としての、確信を与える形式だと言えるだろう。
●知覚を確信へと至らせる媒介としての「確信を与える形式」は、様々なレヴェルのものがあり、それらが複数同時に働いていると考えられる。例えば人を生物学的に規定している基本設定のようなものから、文化や世代や個人的な資質によって大きくことなるローカルなレヴェルのものまであるだろう。そして恐らく人は、確信を与える形式において、後天的、可変的な領域がかなり広くて、そして同時に多数の異なる形式を作動させているのだと思われる。確信を与える形式は、あくまで個体がその外部にある状況に適当に対応するためにあるものなのだから、(つまり世界の実在と関わるためのものなのだから)、この事実(形式の複数性と後天性、可変性)は、人に多様で柔軟な状況順応能力を与えるとともに、確信における不安定さ、ゆらぎ、不安などを生じさせ、破綻をきたす危険をも増大させているだろう。我々の感じる実感やリアリティは、複数の確信を与える形式が同時に作動しつつ、互いに争い、牽制し合うことでバランスを取ることによって、あやうげに成立しているのだろう。ここで言う破綻とは、外部からの刺激(知覚)とは無関係に、確信を与える形式の「形式性」そのものや、複数の形式の関係性などによって、過剰に稼働する機械が勝手に発熱し発情するように、実感やリアリティが幽霊のごとく発生してしまうことだと言えるだろう。(しかし、この破綻が適度な範囲に留まる時、そこに非・世界的な、純粋な快楽が生じるかもしれない。)
(つづく)