作品と印象について

●作品というものを理解しようとする時、あるいはそれを分析しようとする時でも、結局それは「印象」に基づくしかないのではないだろうか。ここで印象というのは、作品によって与えられた「感覚的なもの」というような意味だ。つまり、作品によって触発された「私の感覚」に浮かび上がった何かしらのイメージ、あるいは(もっと直接的に)何かしらの私の身体の変化、のことだ。だから、「作品」を捉えようとすることは、(作品が原因で起こったと思われる)「私の身体」の変化(とその意味)を捉えることだ、ということになる。私は、「私の身体」を遠してしか作品を知ることは出来ない。ここで問題にしているのはあくまで「作品」であって「私(の身体)」ではないのだが、しかし、作品は「私の身体」というスクリーン(というより「基底材」)の上でしか結像しない。
この時に問題となるのは、私に起こっている事(私が抱く印象)が、他人にも起こるはずだと言えるのか(「他人の見ている青と自分の見ている青が同じと言えるのか」)ということよりもむしろ、ある印象を結像するスクリーン(基底材)としての私の身体が、どれほど安定したものなのか、あるいはどの程度の精度をもったものなのか(「私の見ている青と(時間的にズレた)私の見ている青が同じと言えるのか」)ということの方にあると言える。
●通常、同一性をめぐる判断は「感覚(知覚)」によってだけなされるわけではない。むしろ「文脈」や「状況」のようなものに依存する度合いが高いだろう。例えば、昨日買ってきて冷蔵庫の中のある位置に置いた肉と、今、同じ位置にある肉とが「同一のもの」だという判断は、その肉が知覚に与える感覚的なももの質(見た目やにおいや手触り)によって確かめられるというよりは、だいたい似た感じのものが、昨日と同じ位置に置かれている、という事実によって確信されるだろう。むしろ、それが同じ位置にあるという保証を得ることで初めて、知覚的、感覚的な印象の同一性が確かめられる(正当化される)、とさえ言い得る。我々は、日常の生活のなかにある「親しいもの」について、それをことさら「よく見る」ことをしなくても、その文脈上の位置を確認するだけで、同一性を確信する。つまり、「親しいもの」とは、ほんのちょっとした徴を確認するだけで速やかにそれに位置を与え、同一性を確認できるような「文脈」のなかにあるもの、ということだろう。だからそれは、誰かがこっそりと昨日買った肉と一ヶ月前の肉とを入れ替えたかも知れないという「悪意」を想定しなくても、めったには大きな損失はないと思われる、という「世界への信頼」によって成立する。つまり、世界への信頼と親しさこそが対象の「同一性」を保証する。その対象の同一性の保証こそが、翻って、(感覚を結像する基底材としての)私の身体(感覚)の「同一性」(「私の見ている青と私の見ている青は同じである」)をも保証する。
しかし、慣れない未知の環境に置かれた状態ではそうはいかない。感覚は、未知の状況を判断するために少しでも多くの情報を得ようとして、極めて注意深くはたらき、些細な表情まで拾い上げようとするだろう。しかし、安定への信頼を欠いたままで過度に敏感にはたらく感覚は、逆に、同一のものからいくつもの異なる表情を引き出し、受け取ってしまい、それによって混乱を増し、返って状況の把握を困難にすることもあるだろう。(だが、このような状況に置かれた時こそ、「親しいもの」のなかにおかれている時には見えなかったもの(見る必要のなかったもの)が「見え」たりするのだが。)このような状況、つまり世界の親しさや安定性の欠如は、そのままそれを感覚する(感覚を結像する基底材としての)「私の身体」の安定性や同一性を危うくする。このような同一性の危機は、未知の状況をある程度既知にすること、困難な状況を乗り切ること、というような実践的、現実的な行為によって、世界の親しさがある程度回復し、私の行為とそれに対する環境からの反応との「対応関係」が確かめられることで、解決する。
●作品は、とりあえずは、「感覚」を「私」の利害関係とは切り離されたところで扱う。今、私が食べようとしている肉は昨日買ったものであり、一ヶ月前の残りではない、ということを肉の色や匂い(感覚)で判断する時、それは私の身体の健康に関する利害に関係する。だから、肉を実際に食べてみて健康を害するかどうかという結果によって、その判断の是非は確認できる。(つまり「私の感覚」と「世界」との対応関係が確認できる。)だが作品の質(作品によって触発された感覚)に関する判断は、そのようにははっきりとした結果によって測定されることはない。だから「作品」に向かうものは、それによって死ぬことはないというようなある種の「気楽さ」と共に、未知の世界が未知のままでありつづける(私の感覚と世界との対応関係の正/誤を「保証してくれる」ものの「不在」)という「不安」の持続に耐えなければならなくなる。(私の見ている青と(時間的にズレた)私の見ている青が同じと言えるのか」という問いは解決されない)そのような気楽さと不安のなかにおいてこそ、状況や文脈、利害関係から切り離された、ある抽象的な次元における「感覚の質」を扱い得る。(そしてぼくにはそのような「感覚の質」こそが人生を決定するように思えるのだ。)