2019-08-19

AmazonPrimeで、イーストウッドの『チェンジリング(2008)を観た。記憶していた話と全然違っていて、はじめて観たかのように前のめりで観てしまった。エンターテイメントというのはこうあるべきなんだなというような感じで、なめらかに引き込まれ、先を予測できない展開に次々と転がされていき、しかし最後には、これ以外に終わりようがないという、納得できるところにきちんと着地させられる。140分があっという間だった。

記憶していたのと違った点は、もっと、アンジェリーナ・ジョリーの確信が揺らぐような(自分のリアリティが信用できなくなるような)話だと思っていたのだけど、そうではなく、彼女の信念は揺らぐことなく、リアリティの話というより、社会的な理不尽と、それと戦う強い信念、そして正義が実現される、というような過程に重きが置かれている話だったということ。

ぼくなどは、そもそも自分の信念やリアリティが信用できないという話に慣れてしまっている。警察に圧力をかけられたり、精神病院に強制的に隔離されたりすると、自分(観客)が信じていることの方が危うくなってしまうという話にリアリティを感じてしまう。あるいは、90年代の黒沢清などがそうなのだが、最も狂った者こそが「信念」を持つ(狂気に支配された者のみが信念を持ちうる)、という話にリアリティを感じるようになっている。

(人が信念を持つ、というより、運命=狂気=信念に人が掴まれる、という感じ。)

しかしこの映画では、アンジェリーナ・ジョリーの確信は揺らぐことなく、しかもその信念は狂気ではなく、社会的な承認を勝ち得ることに成功し、理不尽な圧力をかけていた者たちは失脚する。ここではリアリティよりも正義が問題であり、社会的に正義が実現されるか否か、というところが重要な点となる。権力による理不尽な圧力に対して、市民の良識や、司法による公正なジャッジが有効に機能し、それをひっくり返すことができるということが信じられている。この映画は、アンジェリーナ・ジョリーとその息子に起こった悲劇というよりも、腐敗した公的権力による個人への理不尽な圧力、それと戦う信念、良識と公正なジャッジによる信念の勝利、というような話にウェイトが置かれている。アンジェリーナ・ジョリーの信念が揺らがないこと(誰も---観客も彼女自身も---彼女の「正気=正義」を疑わないこと)と、警察の理不尽VS信念と良識や公正さの闘いという構図にウェイトが置かれていること、によって、この映画はエンターテイメントとなりえているのだと思う。

(この映画には、1920年代のアメリカにおいて女性たちが置かれていた地位の理不尽さを描くことを通じて、それ以上のもの---現代にも通じる社会的な不公正さとそれに抗する信念の称揚---を示そうとするという側面もあるだろう。)

とはいえ、「アンジェリーナ・ジョリーとその息子に起こった悲劇」は、警察による理不尽な対応より前に起こってしまっている。だから、彼女の信念が「正しい」と社会的に承認され、社会的な正義が実現され、理不尽に振る舞った者たちが失脚したからといって、彼女の悲劇が解決するということはない。

つまり、エンターテイメントとしての対決とその解決は、彼女に起こった悲劇の、あるいはこの作品が提示するモチーフの、解決(あるいは結末)にはならない。この映画はこのままでは終われない。あるいは、この映画のモチーフはここから始まると言えるかもしれない。

ここまで彼女を支えてきた強い信念はあくまで理性的なものであり、それは正義という承認を得られるもの(正しさや承認によって支えられ得るもの)であった。だが、彼女がラストに口にする「希望」は、ほぼ「狂気」と同義であり、この希望=狂気は、他者や社会や正義による承認によって支えられるものではない。理性的な信念に支えられてきたアンジェリーナ・ジョリーが、狂気とも言える(根拠によって支えられたものではない)希望を得ることで、この映画は終わる。

(だからこの時にはもう、社会的正義の体現者であり、アンジェリーナ・ジョリーの支援者であったジョン・マルコヴィッチにできることは何もなく、彼女は彼から離れて一人で歩き出す。彼女の希望は、彼女一人によって支えられた、彼女一人のものであろう。)

チェンジリング」というタイトルは、最初の「息子の偽装」にかかっているというより、ラストのエピソードにこそかかっていると言える。自分の息子の換わりに他人の息子が帰ってくること。それも、「自分の息子の行為」によって、他人の息子が帰ってこられたのだということ。あるいはそれを、「他人の息子の証言」として「自分の息子(の行為)」が帰ってくる、と言い換えることもできるかもしれない。この、現実的には交換不可能な交換可能性が、彼女に(「失意」ではなく)希望を与える。しかしこの希望は救いでもあると同時に呪いでもある(彼女はいったん息子を諦めかけ、新たな人生へと歩を進めようとしかけていたが、呪いとも言える希望によって引き戻され、息子を諦めることが一生できなくなる)。この作品全体の重み、あるいはこの作品のモチーフは、ラストのこのエピソードにかかっていると思う。