⚫︎以下は、検証抜き、熟考抜きの思いつきのメモです。
正義の行為が、その「正義の限界」を自覚的に享楽することに支えられる、ということがあるのではないかと、メディアでの鈴木エイトの振る舞いをみていると感じられることがある。一方で、極めて実直な社会的正義への追求があるが、しかし他方で、カルトをネタ的にイジって嗤うという享楽を得ている「黒」鈴木エイトの顔がチラッと覗くことがある。この二つの面が表裏一体として両立してあることが、鈴木エイトの強さなのではないか。
例えば、ある一つの社会的な問題が解決したとする。そのこと自体は素晴らしいことだが、それは、社会にある無数の問題のうちの一つが解決したに過ぎず、そのことが社会全体に及ぼす影響はわずかなものではないか、あるいは、ある問題の解決により別のところに皺寄せが行ってしまうだけではないか。「わたし」が、一生の多くの時間をその問題に捧げたとして、しかしそれは一体どの程度意味があったことなのだろうか。正義の追求や社会運動には、必ずといっていいくらいこのような虚無感がつきまとうように思う。
このとき、正義の行為それ自体が、その正義を相対化して嗤う享楽に支えられているならば、目的は正義そのものであると同時に(正義を相対化することの)享楽であり、それ自体が楽しまれるという意味がある。
ここで、正義の実践が享楽に支えられるとしても、「美の享楽」に支えられるのではなく、正義が、その「正義の限界への自覚(を楽しむこと)」というアイロニーに支えられているということが重要だろう。このアイロニーによって鈴木エイトの「(没入しない)冷静さ」が生まれるのではないか。これは、かつて言われた「アイロニカルな没入」の対偶にある「アイロニーによる冷静さ」であり、それはいわば「冷淡な熱心さ」によって持続的になされる「アイロニカルな正義の実践」へと繋がる。
正義の実践が「美の享楽」と結びつくとき、そこには普遍への志向や熱狂が生まれ、それは大きな危険を伴う(例えば、無力感を払拭するために内ゲバや自己犠牲的テロや戦争という強い熱狂を必要とする、など)。しかし、正義が「アイロニカルな享楽」に支えられるとき、その正義は、「その正義自身の限界(限定づけ)」によって享楽されているので、「正義の実践(の意味)」は常に相対化され、その問い直し(再フレーミング)の行為そのものが、無力感や虚無感ではなく面白みや喜びや楽しみを生産する。
(これはある意味「批評の享楽」と繋がることかもしれない。)
鈴木エイトが、メディアに取り上げられる事もなく、お金にも名誉にも結びつかず、故に実践的な成果を全く生まない取材を、長年にわたってコツコツと続けられたのは、(普遍的な正義への信ということだけではなく)それがアイロニカルな享楽に支えられたアイロニカルな正義に基づくものだったからではないか。シリアスでハードな正義の実践と、カルトをイジる楽しみは両立するのではないか。
ファンダメンダリストでもオポチョニストでもなく、正義の行為の相対性そのものを享楽するアイロニストとして正義を実践すること。