●無性に観たくなってジム・ジャームッシュの『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』のDVDを借りてくる。堪能した。ため息が出るような細部に満ちている。
この映画は、反時代的であり、貴族的であり、ロマンティックである。それは、この映画の、とても長く生きている登場人物たち(吸血鬼)も同じだ。しかし、彼らのうつくしい、孤高の反時代性、貴族性は、彼らが「ゾンビ」と言って軽蔑する愚かな人間たちの血によって支えられている。下世話な者たちの同時代的な血をこっそり密輸入して、自らの身体の一部としなければ、彼らの永遠とも言える長くけだかい生は成り立たないし、彼らのうつくしい生活も成り立たない。これは矛盾であり、そもそも彼らの依って立つ基盤に欺瞞があると言うべきだろう。しかし、このようなうつくしい状態が成立するのに必要ならば、多少の欺瞞はあってもいいのではないか。血の調達も、人の害にならないように気を使っているのだし(輸血用血液の横流し)。美こそが正義だ。欺瞞(チート)は程度問題だ。そう言って良いのか、悪いのか、よく分からない。しかし、このような生活の孤高のあり様のうつくしさには強く惹かれる。
そして、彼らは彼らの欺瞞によって(彼らの存在の矛盾を代表するような、妹エヴァによって)、存在の危機に陥る。それはもともとあった矛盾であり、自業自得だ。ならば、彼らは自らの孤高のスタイルに殉じて、うつくしい音楽とともに、いさぎよく自分たちの消滅を受け入れるだろう。と思いきや、ちゃっかりと、目の前に現れた運の悪い(若く生々しい)カップルを犠牲にすることで、浅ましくも生き延びてしまうのだ。彼らも根本的にはエヴァとかわらない。おそらく彼らは過去に何度も、このようにして浅ましく危機を乗り越えて生きてきたのだろう。映画のラストは、この映画自身の自己否定(ちゃぶ台返し)のようであり、欺瞞の有無より生存(と美)が優先されるという主張のようでもある。
実は、このような矛盾を感じさせることこそが、この映画の美の享楽の核心なのかもしれない。
ジム・ジャームッシュの髪型は長年ずっと同じだ。デヴィッド・リンチの髪型がそうであるように。