●『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライブ』(ジム・ジャームッシュ)をDVDで観た。ジム・ジャームッシュがひとつ突き抜けた感じ。
映画を構成するイメージの隅々までが完璧にかっこよく、センスよく、うつくしい。そして演出の繊細さと冴え。まさに、オシャレサブカル大賞という感じ。でも、それ以外のものが何かあるのかと言えば、おそらく何もない。でもそれはネガティブなことではなく、何かしらの「もっともらしさ」によって外側から作品を補強することを拒否している、というか、その必要がないということだと思う。『リミッツ・オブ・コントロール』にあったような、とってつけたような資本主義批判みたいなものはいらない。
徹底して停滞、あるいは停滞する(動きの封じられた)時間、だけによって出来ているような映画。ひたすら後ろ向き。荒廃してゆく世界のなかで、その押し寄せる荒廃から、過去の遺物(閉ざされた魂の堆積)と音楽だけで周りを固めることで、それを防波堤として身を守り、停滞する時間が淀むささやかなテリトリーを確保し、そのなかでひっそりと生きる吸血鬼たち。血液さえも、「生きた」人を襲うのではなく、病院から調達する。ギターケースに収められたギターが、まるで棺桶のなかの(腐らない)死体のようだ。
確かに、途中で一瞬、ミア・ワシコウスカが侵入することで、わずかばかりの「生」の野蛮さが彼らのテリトリーを揺るがす。それに、動きを禁じられた停滞した時間のなかで自足する彼らにしても、「ナマ」の血を見ると、自らのなかに生臭い衝動が立ち上がることを否定することはできない。ラストシーンにしても、停滞した時間のなかでゆるやかに消滅して(朽ち果てて)ゆくことを拒否する衝動の立ち上がりで幕を閉じるようになっている。とはいえそれらは、現実として存在するための最低限のゆらぎであり、作品のほとんどを占めるのは停滞であり、停滞する時間に留まりつづけることの強さだ。
これは、現実に存在し得る最も低い体温を模索しているような作品に見えた。その意味できわめて過激であり、たんなる審美主義ではない。現実として存在する限り、動きやゆらぎぎや生々しさをゼロにする(排除する)ことは出来ず、完全に停滞した時間は「死(消滅)」によってしか可能ではないだろう。しかし、存在し得るギリギリのところで、自らのテリトリーの「ゆらぎ」を限りなくゼロに近づけようとする追究は可能だろう。それによって、生きているとは言えないにしても、「存在する」とは言える、極限の低体温状態で持続する生を模索する。この作品の「美」とは、生でも死でもない、ギリギリの低体温状態において発現するクオリアのこと(棺桶のなかの腐らないギターが生み出す音のような?)ではないか。だから、ゾンビではなく(クオリアをもつ)吸血鬼なのだろう。
未来やポジティブさやイノベーションや生産性とは無縁であり、それらが引き起こす希望(可能性)や暴力とも無縁ではあるが、これもまた一種の「無限速度」への探求であり、その追究を可能にすることは芸術のもつ機能の一つだろう。