08/03/14

●『フリータイム』(チェルフィッチュ)つづき。
●昨日の話のつづきで、「こんなに大きいスイカがあった」として実物のスイカを示すとしても、「こんなに大きい」と驚いたそのスイカは既に食べてしまったからなくて、その替わりに同じくらいの大きさの別のスイカを示すとしたら、それは実物であると同時に実物ではなく、そのものであると同時に比喩でもある。フィクションというのは、別のものを同じものとして反復させることが出来るという事実によって、成り立つ。
●『フリータイム』では、ファミレスで朝コーヒーを飲みながらぐるぐる円を描いている女の子が、その前の日に、終電間際(終電一本前)の電車に駆け込みで乗ったら、そこに座席を占領して眠っている酔っぱらいのおっさんがいて、そのおっさんが子供の頃に亡くなってしまったおじいちゃんそっくりで、あっ、おじいちゃんだ、と思った、という挿話がある。まったく別の人だと分かっているのに、それを「おじいちゃんだ」と思うこと。しかも、そう思おうとしたり、そう思わせようと誰ががしたり(つまり似せたり)することなく、いきなり、おじいちゃんだ、と思ってしまう、ということ。
しかも(以下、ちょっとネタバレになってしまうけど)、この女の子は、その「あ、おじいちゃんだ」と思ったことを、「最近よく一緒に食事をするようになった男の子」に話したいと思っている。つまりこのエピソード自体が、その男の子に向けたものとして(男の子の存在を前提にして)想起されている。しかし実は、この男の子は存在しなくて、女の子の妄想上の人物であることが明かされる。ここにも、フィクションのもう一つの原理がある。それは想像上の誰かに向って語られる。あるいは、想像上の誰かへの感情こそが、フィクションを起動させる。「こんなに大きなスイカがあった」と伝えたい相手がいなければ、フィクションはたちあがらない。(この、想像上の誰かは、現実の誰かに当てはめられることもあるが、しかしそれは逆ではなく、つまり、現実上の誰かがいないから、その代替として想像上の誰かが設定されるのではなく、想像上の誰かを想定しているからこそ、そこに現実の誰かを当てはめることが可能になる。)
本来異なるものを、同一のものとして受け取ること、そしてそこには、常に感情が貼り付いていること。おそらくフィクションとは、この二つのことによって可能になる。例えば、私は毎朝林檎を一個食べる、と人が言う時、昨日食べた林檎と今朝食べた林檎との違いは「ほとんど」意識されていない。しかしそこでも、昨日の林檎はしゃきしゃきしていたけど、今朝のはぱさぱさしているなあ、と思ったりもしている。「毎朝食べる」という時、林檎の(本来別の「物」であるはずの)同一性は、私の生活の規則正しい同一性を保証してくれる比喩(おまじない)でもある。しかしそれでも、その都度違ったものとして、毎朝新たに「味わわれる」ことになる。今日の林檎が、あくまで今日の林檎のままで、昨日の林檎の比喩になり得るように、俳優は、自分自身であると同時に、誰か別の人物へと離脱することも出来る。でもそれは、演劇という「枠」があるからこそ可能なのではなくて、我々は普段、そのようなフィクションのなかに生きていて、だからこそ逆に、演劇というフレームを設定することも可能になるのだ。
(フレームが先にあると考える人は、フレームから逃れようとして、結局フレームに拘束される。フレームは結果としてあると考える人のみが、フレームの内部にいるようにみえて、実はフレームから自由であり得るのだ。『フリータイム』における「三十分の自由」とは、そういうことでもあると思う。)
●またちょっと別の話。ちょっと前のところで、女の子が、「最近よく一緒に食事をするようになった男の子」に向って話したいと言っていたその「男の子」は実は存在しなかった、と簡単に書いたのだけど、それは、舞台の終盤近くなって、「実はあれは嘘です」と一度だけ語られるのだけど、しかし「嘘」ですと言われたからと言って、それまでずっとそうだと思って話を聞いてきた時間がある以上、その存在は簡単にゼロになるわけではなく、むしろ逆に、そこで「嘘」だと宣言されることによって、かえって男の子の存在が強くなる感じさえする。(アフタートーク佐々木敦が言っていたように)「嘘です」という言葉が本当か嘘か分からないということも勿論あるが、そういうことではなく、「嘘です」という言葉が本当だろうと嘘だろうと、それまで語られつづけてきた時間があり、その時間のなかで話を聞いていた側のなかで生まれた男の子の存在がある以上、その経験は決して抹消することが出来ない。
同様の仕掛けがもう一つあって、それは、実は今、女の子の父親が癌で入院していて、酔っぱらいのおっさんが亡くなったおじいちゃんに見えた原因の一つに、そのことがあるのだろうということが語られ、その後、これはみんな私のいい加減な推測なんですけどね、と、それはその女の子を見ていたウェイトレスが勝手に妄想したことだとして、その事実性が否定される。しかしこの否定もまた、実際にはそれほど強くは作用せず、一度聞いてしまった、父親が癌だという話は、観客に強く印象づけられたままだ。
ここにもまた、フィクションの力が作用していて、一度語られたものは、それが事実であろうが、そうでなかろうが、否定によってでは、簡単に消去したり反転させたりすることが出来ない。フィクションの経験においては、Aと非Aとは等価なものとして並立する。そしてこの原理もまた、決して虚構という枠のなかだけで作用するものではない。演劇とか映画とか関係なく、我々が普段、日常的にしている会話のなかでも、このような原理は作動している。「私はあなたを嫌い、ではない」と言われた時、「ではない」という否定の前に置かれた「嫌い」を聞いた時のショックは、その後否定され、意味として了解された後にも、完全に消えるわけではない。フィクションはたんに意味の次元にだけあるのではなく、経験の次元にもショックとして作用する。「嘘です」という否定によって、意味においてはゼロになっても、経験においてはゼロにならない。フィクションの力はおそらくそこにある。そして、意味と経験とが相反することは、日常的に、普通にある。そしてそれはまた、フィクションにおける経験と、現実における経験とは、経験の場においては質として等価であるということでもある。
我々がもともとフィクションのなかで生きているからこそ、作品としてのフィクションに力が宿る。