●フィクションについて考える時、例えば、小説なら小説にしか出来ないこと、絵画なら絵画にしかできないこと、みたいな、メディウムに根拠を置くメディウムスペシフィックな思考(表現論)は成り立たないと思う。いや、メディウムについての思考は依然として重要だけど、作品成立の根拠をメディウムに求める(メディウムの同一性に頼る)ことは出来ない。しかし、メディウムやフレームというものを不可視化し、フィクションを魔法化して、「現実」のなかに溶け込むように遍在させることが良いこととも、どうしても思えない(良し悪しとは関係なく、現実はそういう方向にゆくのだろうが)。それはむしろフィクションの現実性を殺してしまうように思われる。
(それはむしろ、フィクションを現実的な原理――資本や権力や技術の原理――に従わせるという方向になってしまうのではないか。そうなると、フィクションのもつ「現実の可能性の可動域を広げる」というような機能が失われてしまうのではないか。要するに、フィクションであることによって可能になる「自由度の高さ」が極端に制限されてしまう。)
フィクションについて考えるための「統覚」としての機能をメディウムが失ってしまった時に、それでもフィクションを、社会的(現実的)な関係性へと還元されないものとして考えるためにはどうすればいいのか。
●『虚構世界の存在論』(三浦俊彦)の第一章におもしろい思考実験が示されている。
例えば「水」という一般種概念について「水が水である」といかにして言えるのか。ここで二つの態度がある。(1)一般に広く認められている水としての特徴群が認められる。(2)H₂Oという化学的組成が認められる。(1)の場合、我々は「ソラリスの海」を「水」と呼んでしまうかもしれないが、その後の経験(死んだはずの妻が現れる、など)によって間違いだと分かるかもしれない。(2)についても、さらなる化学的な探求によってより基礎的な性質が発見されるかもしれない。例えば「電気」と「磁気」のように、異なるものとして発見され研究されてきたものが実は同一の「電磁気」であったと判明したように。(1)は知覚的、(2)は化学的だが、どちらも対象の「性質」によって水の同一性を定義している。だがどちらもさらなる探求によって間違いだと分かるかもしれない。よって水は(知覚的にも化学的にも)性質には還元されず、この世界のうちにある「水という対象」そのものへの指示(外延)によってしか同一性を示せないということになる。《水の外延は、いかなる特定の性質群からも論理的に独立である》。つまり、同一性認定の根拠は、その物体の物質的連続性(外延)の追認――その物質の来歴を調べること――によってしかあり得ない、となる。
では芸術作品の同一性はどうなのか。ここで、「性質」を根拠とする立場を現象主義、「外延」を根拠とする立場を外延主義と呼ぶとする。
思考実験。AとBという二枚の古典的な絵画がある。Aを、修復し汚れやカビを落としてゆくとだんだん変化して、Bとそっくり同じ絵になった。しかし、Bを修復し汚れを落としてゆくと、かつてAと呼ばれていた絵とそっくり同じになった。要するにAとBとがそっくり入れ替わってしまった。
この時、外延主義の立場ならば、絵画Aは物質的連続性に基づき依然としてAでありつづけるが、現象主義をとる場合は、知覚、感覚によってAとして捉えられる「かつてBであった方」こそをAとして扱うべきだということになる。
もう一つ思考実験。αとβという、それぞれ行き来を持たない二つの隔絶された社会がある。偶然、αとβの両方の文明に見分けがつかないほどそっくりな作品が生まれる。しかし双方の文明はその成り立ちが大きく異なるので、作品が生まれた環境、影響関係、文脈などは異なり、その後の、その作品についての評価や歴史的位置づけの変遷もまったく異なっている。
この時、外延主義をとるならば、二つの作品はまったく別の作品であると言うべきだが、現象主義をとる場合は、まったく同じ「感覚」を現象させるのだから、同一の作品と見なされるだろう。
対象が「自然物」である場合は外延主義が適当であった。では、「人工物」である芸術作品を考える時、外延主義であることと現象主義であることと、どちらが適当だと言えるのか、と、問われる。
ここで、自然種と名目種という区分が導入される。「虎」は自然種であるから、いかなる特定の性質群からも論理的に独立していて、故に外延によってしか同一性を確認できない。虎をどのような性質(群)として定義しようと、それは将来間違いだと分かる可能性がある。例えば、今「虎」と呼ばれているものは実は生物ではなく、古代に宇宙人によって地球に持ち込まれた自己増殖する機械であったと判明する未来が、あり得ないとは言い切れない。一方、名目種である「独身男」は、その性質があらかじめ定義として与えられており、「独身男は実は女であった」ことが判明する未来など(定義上)あり得ない。三角形は実は四角形であった、があり得ないことと同様に。名目種は人工物であり、その存在、または特徴付け(定義)を人間の志向性に依存している。
芸術の外延主義は、作品を現実世界の自然の一部として扱う。伝記的、社会学的、歴史主義的な批評は、芸術作品を自然種としていて、つまり、芸術を人間の主体的、文化的関心を超越した「実在」として扱っている。《テクストの変化や外的拡張を無限に認める点で》ポスト構造主義や脱構築主義もまた、外延的自然実在論に根ざしているのだ、と。作品に対する「新たな発見」がある度に、それ以前にその作品の重要な要素と思われてきたものであっても、再検討され、訂正され、時に破棄されるかもしれない。だからここでは、どんなに破損していようと「物質的な連続性」をもつものこそがオリジナルの作品であることになる。
一方、フォーマリズムやニュークリティシズムのような現象主義は、超歴史主義的で感覚(知覚)的であり、芸術作品を名目種として扱っている。作品は、公共の常識や知覚の現実によって規定されており、一群の性質の束は、すでに定まり定義されている。作品は、人間によって実際に知覚されているものを超えるものではなく、「諸性質の束」にとして確定されて、ある。この場合、オリジナルの破損が激しい場合、より過去の(知覚に与えられた)姿に近い「複製」の方にこそ、作品鑑賞の根拠がおかれるべきである、ということになろう。
(外在主義と現象主義の違いは、人工知能が脳=意識を再現するために必要なのは、モノのレベルであるのか、情報のレベルであるのか、という違いとパラレルであるように思われる。)
そして、芸術の外在主義の逆説について次のように書かれる。
《オブジェをはじめいかなる自然芸術にしても、作品を美術館なり紙の上なりコンサートホールなりに人為的に定着させアピールする制度に依存する限り(…)自然・外界との区別を抹消するためには囲い込まれた区別的トポスを却って強く必要とするのであり、芸術の自然化なる要項を自ら切り崩しつつ進まねばならないということになる。》
おそらく、このようなパラドクスにより、芸術の「外在主義(自然・現実主義)」が「アートワールド(マーケット)内部の文脈主義」へと反転して一体化してしまっているのが現代芸術の現状と言えよう。作品と現実との間のフレームをとっぱらおうとするため、アートワールドという別のフレームに一元的に囚われてしまう。
この事実をもって著者は、芸術においては現象主義をとることが妥当だと結論づけているのだが、ぼくとしては、そう言い切ってしまうのも違うように思われる。芸術の意味は、それが自然種とも名目種とも言い切れない、自然とも人工とも、モノとも記号(情報)とも言えない、どっちつかずの曖昧な中途半端さにこそあると思われる。