ブリヂストン美術館で、ザオ・ウーキー展

05/01/04(火)
ブリヂストン美術館で、ザオ・ウーキー展。この展覧会は複数の人から勧められていたのでちょっと期待していたのだが、ぼくにはイマイチという感じだった。何というか「分かりすぎる」という感じ。とても趣味がよく、かつ勉強熱心で、その時期によって様々な作風にトライして、そのどれもが一定の水準にはちゃんと達しているのだが、そのどれもが「突き抜けた」ところまでいっていない。悪くはないと思うけど、この程度の人なら「発掘」すれば他にもたくさんいるのだろう、と「思わせてしまう」ような弱さがある。つまり(作品の趣味や作風は違うけど)まるで自分を観ているみたいな(見せられているみたいな)息苦しさを感じてしまったのだった。初期の頃の、叙情的な、茫洋とひろがる色彩=空間に、線によってリズムと振動が刻み込まれるような(ちょっとクレーを思わせるような)作品は、ぼくの趣味としてはとても好きだし、「おっ」と思うような新鮮な作品も何点かあったけど、その後の、抽象表現主義と東洋趣味とを融合させたような展開の作品は、狙いがあまりにあざとくて(あるいは「絵画」をやろうとするこの世代の非西洋的な出自を持つ作家は必然的にこうなってしまう、ということなのかも知れないけど)、いただけないと思った。会場には今井俊満脇田和と一緒に写っている作家の写真(ザオ・ウーキーは、すがわらきよみさんに顔が似ていると思った)があったけど、(好き嫌いは別として)晩年のイマイの「突き抜けた」感じ(http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/furuya/011030.html)や、脇田和の、徹底して「小さな」趣味のなかに留まろうとする「頑なな強さ」の方が、ずっと凄いものだと感じられてしまう。
ブリヂストン美術館には本当に久しぶりに行ったのだけど、そのコレクションの充実ぶりには改めて驚かされた。これだけ充実した作品が、自分のごく身近にいつも展示されているのだから、もっと頻繁に足を運んぶべきだと思った。以下、コレクションの展示を観た感想を、ランダムに書く。
●古代の、メソポタミアやエジプトの彫刻やレリーフを観て思うのは、人間が「観ているもの」が、現在と比べても驚く程「変わっていない」という事実だ。(この点でぼくはフーコーを信用しない。)人間が「視覚」において「何」を捉えるのか、あるいは「何」を捉えることを視覚的な「歓び」とするのかという点において、紀元前24世紀頃のメソポタミアの彫刻も、紀元前14正規頃のエジプトの彫刻も、20世紀のマティスの絵画も、本当に驚くほどに共通しているのだ。勿論、表現の様式や技術、あるいは作品のシステムを制御している形式などは異なるのだけど、その表現そのものを駆動させる起因となるような、視覚が捉える「何か」は共通していると思える。(その「何か」を感知出来ないとしたら、作品を観る意味のほとんどがなくなってしまうだろう。)おそらく視覚はとても原始的=動物的な感覚(つまり人にあらかじめ基本設定として固定されてあって、書き換えが困難な感覚)であり、この事実はこんな時代にあえて「絵画」をやろうとするぼくに勇気を与えてくれると同時に、視覚的表現の限定性(限界)をも同時に感じさせもする。だから一方で、きわめて素朴に視覚が捉える「何か」を信じるのと同時に、もう一方で、視覚という感覚が決して視覚のみで閉じずに、それ以外の諸感覚と、あるいは言語(シニフィアン)や社会の体制と連結しても働くものでもあり(もので「も」あり、の「も」が重要)、そこでどのような「別の関係」を編成(モンタージュ)出来るのかということも同時に追求される余地もあるのだという点も、考慮するべきなのだと思う。
レンブラントによる、小さな小さな作品が展示されているのだが、この「光の巨匠」のささやかな小品からは、いかにも巨匠というような大げさな身ぶりは感じられず、この絵から感じられるのは、「気が利いている」という言葉はこの絵のためにあるのではないか、という冴えた、しかしあくまでささやかな感覚だ。光源をフレームの外に置き、最も強い光の場所を鎧に反射した間接光として設定した上で、それと対比させるようにささやかな、しかしそれ自体が光っているのだという確固たる強さをもったろうそくの光と、その光によって照らされた半ば闇に溶け込む(闇の一部であるような)人物を描き、それを(恐らくたき火の光に照らされているのであろう)明るく照らされる前景の人物の後ろに置くことで、徐々に闇が深まってゆく様を段階的に示し、それによってこの絵全体を包んでいる闇を一層深いものとして感じさせる。(ろうそくのささやかな光こそが、この絵の豊かで深い闇を出現させている。)とかなんとか、言葉でいくら描写しても追いつかないくらいの、冴えた、気の利いた、繊細な感覚が、このきわめて小さな絵のなかに、惜しげも無く、これみよがしの身ぶりとは無縁に、贅沢に盛り込まれているのだ。
ジャコメッティの『ディエゴの肖像』という作品は、どこから観ても良いというような彫刻ではないのだ、ということに気づいた。例えばその「顔」の部分は、前後に長く引き延ばされ、正面から観るとぺしゃんこで、一見、横から観るのが良いようにつくられていると思わされるのだが、実は正面から観た時こそが、前後に伸びた空間が圧縮されて、もっとも緊張をはらんだ見え方をするのだ。つまりこの作品はきわめて正面性の強い彫刻なのではないだろうか。それでふと思いついたのだが(つまりあくまで思いつきでしかないのだが)、ジャコメッティの絵画が「彫刻的」なものであるのに対し、その彫刻はとても「絵画的」なもので、ジャコメッティの関心はその中間の領域にあり、だからこそ彼は、絵画と彫刻の両方を常に追求したのではないだろうか。
●このコレクションで充実しているのはやはり印象派以降の近代絵画で、マティスセザンヌが最も充実している(一方、モネの作品にはあまり良いものがない)のだが、ルノアールやボナールの作品の質の高さにも驚かされる。ぼくは他で「こんなに良いルノアール」を観たことがないし、ボナールの『ヴェルノン付近の風景』という作品は、恐らくボナールの全作品のなかでも最良のものの一つなのではないだろうか。ボナールのこの作品での、左側に描かれた細長く大きな葉がだらっと垂れている描写の素晴らしさは、いくらでも眺めていたいくらいのものだし、何よりこの描写の素晴らしさが物語っているのだが、ともすれば(色彩の、ほとんど痴呆的な歓びを促す感覚を別にすれば)ボナール的様式のなかにきれいに納まってしまいがちなところが彼の作品にはあるのだが、この作品では、ボナール的な様式と、その色彩の魅惑的な表情だけでなく、それらが現実的な対象との緊張関係のなかで組織されているように思うのだ。(その結果として、素晴らしい「葉」の描写が生まれる。)この絵では、空にかかった雲の白と、それが水面に写った白は、ギャンバスの地の白がそのまま残った状態である。この絵における「現実的な対象」とは、ただ描かれる風景や木の葉のことだけでなく、このキャンバスの地の「白」のことでもある。この絵において、あらゆる色彩やタッチは、あらかじめある(絵を描きはじめる「前」からある)この「白」との緊張関係において組織されており(つまり、安易に下地をつくったりキャンバスを汚したりしてキャンバスを我有化して「描き易い」状態にしていない)、この「地の白」への緊張が最初から最後まで持続しているからこそ、この絵の活き活きとした感じが生まれているのだと思う。
●ルオーという画家をどのように捉えればよいのかは、未だによく分からない。ぼくが絵画に最初に興味を感じたのは、たしか小学生の頃に観たルオーだったように記憶している。小学生の頃のぼくがルオーの「何」に惹かれたのかは今ではよく分からないのだが。ルオーの絵を前にして、しばし途方に暮れるのだった。