●「あらゆる事柄は政治的である」という言葉は絶対的に正しいがゆえに、間違って機能してしまっている気がする。それは、作品に没入し、それに本気で身を捧げなくても、その手前でのあれやこれやのネタ話(社会や金の話)、小手先の操作、メタレベルでの上から目線の言説等々によって、作品を手なずけたり、処理したりしてもオーケーという風潮のアリバイとなってしまう。だから「正しさ」っていうのは取り扱いに注意しなければならない危険なもので、もっともらしい「正しさ」は簡単に都合のよいことのための口実になる。
あらゆるもののなかに政治(あるいは経済)があることと、あらゆるものごとが政治(経済)に還元されるということは全然違う。政治も経済も既に作品の内側に折り込まれており、内に折り込まれた諸力の複合の強さが作品の外の力(政治や経済)と拮抗し、相殺する時にのみ、それは優れた作品でありえる。作品は、政治のただなかで、政治にまみれつつ生まれるが、政治を超える。:現実的な素材を、現実的なやり方でモンタージュすることで、現実とは別種の機能を獲得する。だからこそそれは、外側からの基準では測れない。それこそが作品というものの理念ではないか。
ということは、それはもとより理念としとしてのみ仮構が可能である(未だ獲得されてない、やがて獲得されるであろう未知の何かに向けて先取り的に自らを捧げることによってのみ可能である)ということだ。誤解されてるかもしれないけど、ぼくは、自分のやっていることが文脈から自由だなどとは勿論思っていないし、外から文脈づけられることを回避(拒否)出来るなどとも思っていない。「あらかじめ」文脈から自由な場所にいることなど誰にも出来ない(それは成立した作品のなかに事後的に見出されるしかない)。誰だって特定の状況に絡め取られたなかで生まれ、そこでしか生きられない。
(さらに、こんなに流動的な世界では特に、誰だって空気や潮目が気になって不安で、だからこそそこに過剰に拘束されるはずだし、ぼくのような、来月の収入を心配しないで生きられる月などない、つまりちょっとした潮目の変化に直撃される経済的基盤しかもたない者であればそれは尚更だ。)
ただ、作品の(内的)強度のみがそこからの超出を可能にする(のではないかという希望、あるいは信仰)。作品を外側の基準に合わせては決して処理しないことによってのみ、出来る限り作品の内側の論理に従ってそれをつくり、またはそれを受け取ろうと努めることによってのみ、特定の文脈の拘束からはみ出す可能性が生まれ、特定の状況や政治を超え得る(もっと遠く、大きなものへと届く)可能性がひらかれるはずだと考え、それを必死に試みている、ということ(自分にそれが出来てるなんて簡単に思えるはずもない)。
それは決して、状況や歴史を否定するものではなく、むしろその拘束と限定のなかにいることを強く感じるからこそ、そこにしか居場所がない(その外はない)と感じるからこそ、作品という形でそこからの超出を試みているということなのだ。