●『星の長い一日』(いまおかしんじ)をDVDで。「昔の(初期の)前衛的ピンク映画」の脚本を、現在のいまおかしんじが撮った、みたいな妙なギャップ感が面白い。実際、九十年代に書かれてボツになっていた脚本を撮ったということらしいけど、でも、九十年代でも既にこれは「昔の前衛的ピンク映画」っぽいと言われたのではないか。
「昔の前衛的ピンク映画」っぽい理由は、おそらくその抽象性にあるのではないか。全ての登場人物たちにほぼ背景が存在せず、舞台も、部屋1とか路上2とかいう感じで、それ以上の具体性がない(地から切り離されている、その意味で、「地」の方こそを捉えようとしている、七日の日記に書いた『さらば愛しき大地』みたいな映画とは真逆の行き方だろう)。映画を撮る時には、そこに実在する俳優や実在する具体的な風景をあてはめてゆくのだけど、そこで具体性を与えられてもなお、「それが任意に選ばれたもので、交換することも可能である」という感じを強くまとっているように感じた。そして面白いのは、「交換可能である」という感じが残っているからこそ、そこに映っている人やものの具体性がより際立ってくる感じになっているところだ。このような、抽象性によって具体性が際立ち、逆に、具体的な形を得ることによって抽象性が成立するという感じは、映画ならではのものなのではないか。
この、具体性と抽象性の同居は、画面のある種の貧しさによって可能になるとも思う。それは、撮影所で撮られる映画のような豊かな画面をつくることのできない「昔の前衛的ピンク映画」が必然的にあみ出した方法でもあろう。
とはいえ、現在のいまおかしんじの演出は、「昔の前衛的ピンク映画」とは全然違う。政治と犯罪と自意識とがある種のロマンチシズムを媒介とすることで混じり合っているような、日本のサブカル的審美主義的想像力と、いまおかしんじの、とても優しい、ある意味で根本的な「甘さ」を含んだファンタジー的想像力とでは、根本的な違いがあるように思う。無理して「昔の前衛的ピンク映画」みたいなことをやろうとして、やり切れていない(というか、近いようで違っている)ところが面白いのだと思う。
例えば、ここに出てくる三人の女性たちはあまりに優しすぎる。「こんなに、男にとって都合のいい女ばかり出しやがって」と批判されても仕方ないくらい優しい(こういう「優しい」女性像がDV男を増長させるんだ、とか)。でもそのような批判は、「プーさん」には人間の生臭い欲望がないじゃないか、という批判と同じくらい意味がないように思われる。これはあくまでファンタジーなのだし、そして「これはファンタジーです」という注意書きが、例えば終盤で主人公が押し入った部屋の女性から性交を拒否される場面によって、はっきりと示されてもいる。
この映画では、物語がはじまって間もなく主人公が刺され、それから映画の終わり近くまですっと「瀕死の状態」で苦しみつづける。ファンタジーと書いたけど、生と死の間をさまよう幻想世界が描かれるのではないし、死んだことに気付かずに普通に行動するという話でもない。主人公はひたすら、身体的な痛みと死の恐怖で苦しみつづけると言っていい。そして、謎の(狂った)男女が出てきて、苦しむ主人公を前にして、救急車を呼ぶでもなく、介抱するでもなく、「あんた死ぬで」とかバッサリ言いながら、瀕死の人の脇でセックスをはじめたり、彼を二人のセックスの刺激に利用したりさえする。
目の前の死に無関心な、残酷な他者であるかのようなこの二人は、しかし映画を観るかぎりまったく残酷には感じられない。彼らはむしろ、運命として死を確定された男に寄り添い、彼が死ぬまでその孤独な死に付き添うような、彼を看取るような存在として描かれている。残酷な他者どころか、見ず知らずの男の死に付き合い、最後まで看取ろうとする優しい人たちなのだ。この映画には、サブカル的な「つっぱっていたけど、つい弱いところをみせちまったぜ」的な気取りがまったくなく、あからさまに、ぶっきらぼうに優しい人たちの映画なのだと思う。
つまりこの映画は、死んでゆく人のまわりに、ひたすら優しい人ばかりが集まってくるという映画だと言え、彼らの(非現実的なまでの)優しさによって、なんとか「死」の重さに逆らおうとしているような映画であるように思われた。ファンタジーであるというのはそういう意味で、いまおかしんじの映画の多くは、死という現実に抗するファンタジーであるように、ぼくには感じられる。