●抽象性や形式性について考えていると、抽象的なものの具体的な手触りとしか言えないものに突き当たる。その時、我々が具体的なもの、具体的な感触として感じているものが、抽象的なものによってこそ成り立っているのではないかという気持ちになってくる。
●写真を撮ろうとする時、そこに映し込もうとするのは、目の前に見えている具体的な風景やその場所そのものなのか、それとも、見えているものは交換可能な項(色や形やテクスチャーや光)であり、それらの項の、フレーム内での組み合わせや配分のあり様こそが問題となっているのだろうか。
しかし、交換可能な項たちのある複雑な組み合わせや配分こそが、その場所の具体性を形作るのだとしたら、その両者は決して別のものではない、というか、分けられなくなる。写真を撮ろうとする時に撮る「私」が「居る」のは、抽象性と具体性とを識別することのできない領域なのではないだろうか。
●例えば、ある地方で長く歌い継がれる民謡のリズムが、その地方の人々代々の労働の身振りから生まれたとしても、そのリズムは労働を描写しているのではないだろうし、労働の本質を抽象的に抽出しているのでもないだろう。その時、労働とリズムとは決して分けることのできない(そうなってしまったら意味を失ってしまう)ある堅い絆によって結ばれていると言えるだろうが、しかしリズムは労働を表現する(代弁する)ものではない(労働はリズムの「意味」ではない)。それは繋がっていながらも別のものであり、別のものであることによって互いを活性化するように共鳴する関係をもち得るのではないか。
●重要なのはそこに「秘密の繋がり」があるということなのではないか。そして、ある物から延びる秘密の繋がりは一本だけではないはず。ある物は、別のいろいろな物へと秘密の繋がりをのばすことができる。リズムは、土地の労働との繋がりを残しつつ、まったく別の物との間に繋がりを見出すことも出来る。
●カメラのフレームは、「その土地のもの」たちのなかから、また別の繋がりを見つけ出す技法としてあるのではないか。写真のイメージは、フレームによって切り分けられ、視覚的な諸項の関係へと還元する形で平面上に変換されたものであるが、その関係はそもそも「その土地から出た」ものであり、秘密の繋がりを残すものであるはずだ、と。
●以下は、一月四日に、実家に帰って海まで散歩した時の写真。