●『熊から王へ』、とりあえず最後まで行った。これはとても良い本だった。2002年に出た本だけど(9・11直後の講義録)、何故これを十年前に読まなかったのかと後悔するくらいに。八十年代から九十年代には中沢新一を何冊かは読んでいるはずで、でもそれ以降あまり読まなくなった(『狩猟と編み籠』は「群像」連載中に読んでいたことを思い出した)ということは、そこで特に興味を感じなかった(あとやはり、オウムのことも多少は影響したのだろう)ということだと思うけど、その時に感じていた漠然としたイメージ(過剰にきらびやかな感じ)と、2000年前後以降に書かれたものから受ける感触はかなり違う。おそらくそのあたりの時期(2000年前後)を境に大きな変化があったのだと思う(9・11も大きなきっかけの一つなのだろうけど、ラトゥールを読んだということもきっかけの一つなのではないかと思う)。ちゃんと読んでおけばよかったと、今更ながら思う。
あと、「ピングドラム」との共振がいたるところに感じられ、幾原邦彦が「カイエ・ソバージュ」を読んでいるという思いがますます強くなった。
●この本は、神話の思考(対称性の思考)を丁寧に解説しつつ、それがある一定の条件(富の蓄積と社会の階層化)によって、内側から食い破られるように破綻して、クニ(王)が出現する(してしまう)プロセスが描かれるのだが、それと同時に、同様の条件に達しながらも、クニ(王)を出現させなかった人たちの姿も(深い共感とともに)描かれている。それは具体的な歴史として描かれるのではなく、あくまで形式的な理論として描かれるのだが、しかし、対称性からクニ(王)へと転換する臨界点として、ネイティブアメリカンジェロニモの例(クニの発生の萌芽がギリギリで抑制された)と、クニ(王)の誕生の瞬間を描いたスサノオの神話の例という裏表の例が示され、そこにとてもリアルな生々しさが与えられる(特にジェロニモの例は深く心に残る)。
●自然との対称性を最重視する対称性の社会では、「文化(世俗的なリーダーとしての首長によって代表される)」と「権力(自然から「力」を抽出する技術、シャーマン等)」とが注意深く分離されていて、その中間に「神話の思考」があってバランスをとっている(神話は、世俗-文化の側に発生する不平等を批判し、また、権力-技術-マジックの側の行き過ぎも抑制する、両者の混合態としてある調整装置だ)。この両者の力関係は決して固定せずに流動的であり、神話の思考がそのバランスを調整する。しかし、王においてはその文化(首長)と権力(シャーマン等)が統合されてしまう。それによって流動的な神話の思考が固定化される「クニ」が発生する。神話は常に、半ば具体的、半ば抽象的である混成性と流動性をもつが、これが失われることで、神話という流動的なバランス調整地帯によって「秘密の繋がり」を保ちつつ注意深く分離されていた世俗(具体性)と権力(抽象性・技術力)が、絆を失って孤立したまま自律(純粋化)し、一方で世俗的な不平等が固定化して拡大し、もう一方で抽象的な権力(技術)が暴走することになる。「文化」とは異なる「文明」がクニによって生まれ、この文明こそが「野蛮」であるのだ、と。これが中沢新一が描き出す国家の誕生ということになる。
●そして最後に、国家が成立した後に生まれた仏教が、国家に内在する「国家に抗する社会(思想)」として、対称性の思考を実現させている実例として取り上げられ、もう一つ、数万年前から、様々なバリエーションへと変化しながらも民話という形になって大正時代の青森にまで伝承される「鮭の大助」の物語が、「対称性の思考」が現代までも保持されつづけていることの例として挙げられる(最後に示される「鮭の大助」の自己犠牲という主題は、あきらかに「ピングドラム」に響いているように感じる)。
●この本では直接的な話題にはされてはいないけど、中沢新一一神教に対して「国家に抗するもの」としながらも批判的で、仏教をもちあげる感じが、なんとなく少しみえてきた気がする(一神教においては抽象性−超越性を純粋化(「一」化)する感じが「国家」と似ているということでないか)。この辺りの突っ込んだ話は、「カイエ・ソバージュ」の四巻目あたりでなされるのだろうか。