2021-12-29

●『パームビーチ・ストーリー』(プレストン・スタージェス)をDVDで観た。DVDというか、VHSのソフトをDVDに焼いてもらった、画質が良いとはいえない状態のものを観たのだが、後で、『結婚五年目』というタイトルでアマゾンプライムにあることを知った。

ホークスの『赤ちゃん教育』や『ヒズ・ガール・フライデー』、キューカーの『フィラデルフィア物語』、そしてスタージェスの『パームビーチ・ストーリー』など、何本かのスクリューボールコメディの映画は、二十歳くらいの頃のぼくには神の御技のように見え、芸術というものの究極の姿のように思われた。今の自分は(それ以外にも多くのすごい作品を知ったので)、二十歳前後の時と同じ熱さでこれらの作品に接するのではないが、それでも一種の奇跡を見ているような感覚で作品に観る。

スクリューボールコメディの多くの作品は、男女間の結婚や離婚をめぐるゴタゴタを題材としているが、ロマンティックな恋愛というような感情移入を許す要素は皆無で、共感不可能な、ちょっとどうかしている変人ばかりが出てきて、常軌を逸したドタバタが繰り広げられる。だが、そのドタバタはカオティックなものではなく、精密機械のような、複雑に組まれたロジカルな仕掛けの正確な作動と、きわめて洗練された演出によって成り立っている。作中の出来事の次元ではカオティックにみえるが、作品の設計という次元ではとても端正なのだ。最も強い狂気と最も深い混乱には、精密で厳密な論理と設計によってはじめて至ることができる、というような。

スクリューボールコメディの傑作たちにおいて、登場人物も引き起こされる出来事も、現実に根拠を置くような意味のリアリティ(現実らしさ)はまったくない。それでも、現実的にはありえない状況や展開に説得力を与えているのは、装置の正確な作動とそれを裏付ける(裏側で働いている)ロジックだと言える。それは、ピタゴラスイッチ装置の突飛で恣意的にもみえる展開に根拠を支えるものが物理法則である、ということと似ている。物理法則を唯一の根拠としながらも、運動が物理法則を越えたかのようなイリュージョンを生み出すからこそ、ピタゴラスイッチの装置は面白いのだと思う。そのイリュージョンは、配置や設計とオブジェクトが出会う場所でうまれる。

『パームビーチ・ストーリー』では、一応はハッピーエンドと言える結末が訪れるのだが、ここまで徹底して「人格」や「人間性」というものを軽んじた強引なハッピーエンドが他にあるだろうか。(まったく現実的ではない)この強引さに、それでも言いくるめられてしまうのは、この強引さこそが、終幕までずっと、この映画の展開を支えてきた論理の帰結としてあると納得するからだと思う。

それにしても、『パームビーチ・ストーリー』に出てくる老人たちの気の狂いっぷりは何なのだろうかと、唖然とする。邪気がないが故に徹底してたちの悪い狂騒。前に書いたことと矛盾するようだが、実はこの姿こそが老人という存在のリアルなのではないかとさえ思えてくるくらいの強い描写だ。そしてあげく、老人たちの乗る車両は他の車両から(つまり社会から)切り離されて置き去りにされる。だか、置き去りにされ、捨てられてもなお、彼らの悪ふざけはつづくのではないかとも思える。

映画の前半で、一組の若いカップルは、気の毒なことに、財力があるが気が狂った老人たちに翻弄されて、本来の自分たちの立ち位置を見失ってしまう。一見、若いカップルを援助しているようで、その実、彼らを愚弄しているかのような老人たち(と偶然)によって、カップル(特に女性)はまったく身の丈に合わないところに祭り上げられる。そして、一連の狂騒からようやく目覚め、カップルが再び身の丈に合った生活に戻ろうという常識的な結末に向かうと思うや否や、一転して、非常識で非人情(非人間的)な結末へなだれ込む。