2022/02/23

●『天国にちがいない』は、見る人(エリア・スレイマン)と、見られる対象(世界)との切り返しが基本となる。それはつまり、映画の半分は「見ているスレイマン」を見ることでもある。そこでスレイマンは、これといってはっきりしたリアクションをとることがほとんどない。まったく無表情ではなく、常に軽い驚きと戸惑いを滲ませるが、それはニュアンス以上のものを世界に返さない(しかし、この「軽い驚きと戸惑い」こそが映画のトーンを決定する)。

レイマンはほぼ他人とコミュニケーションをとらない。夕暮れの庭に佇み、隣人の話や行為をただ受け止め、映画の企画が流れたという説明を聞き、道行く人々を眺め、水を運ぶ女性を見る。彼が唯一コミュニケーションをする(アクションに対してリアクションを返す)のは、バリの部屋にやってきた小鳥のみであり、その小鳥との関係もすぐに決裂する(隣に住む老人が雨のなかでびしょ濡れになりながら立ち小便をする姿をみて、傘を差し出したりはするが)。

常に軽い驚きと戸惑いを滲ませる「見る人」であるスレイマンを媒介として、強い因果的な関連を持たない出来事たちが継起的に連ねられていく(軽い驚きと戸惑いが、この映画を「やれやれ」的なニヒリズムと一線を画する、微妙かつ決定的な要素だ)。

因果的な物語としては、イスラエルに住むパレスチナ人の映画監督のスレイマンが、映画の企画をもってパリに行くが上手くいかず、ニューヨークではプロデューサーとまともに接触することすらできない。その際、パリでは何かしらの大規模な式典が行われているようで、ニューヨークでは(おそらく)ハロウィンの騒ぎに巻き込まれる。そして、タロット占いでパレスチナの未来を占う。占いの結果は「パレスチナは存在するが、それは我々が生きている間ではない」(カフカの「希望はあるが、それは我々のものではない」に似ている)だ。帰国したスレイマンが、若者たちが踊っている酒場の隅で酒を呑みながら彼らを見ているところで終わる。

しかしこのような物語はそれほど重要ではない。スレイマンにとって世界は「驚き」としてあらわれ、そのような「驚きの場」において(どこにいても)自分が場違いであることに戸惑う。だからこの映画がコメディであるとしても、ここにあるのは皮肉や風刺ではなく「(世界の、ではなく、スレイマン自身の)滑稽」だ。とはいえ、その驚きも戸惑いも微風のように微かなもので、その場で沸き立ってはすぐに消え、1つ1つの出来事が因果的に展開していくことがない。いや、因果的に展開しないのは、それを見ているスレイマンの限定された視線のなかでは、ということで、出来事それ自身は、その背景が「世界」という深さに繋がっていることを感じさせるものだ(スレイマンという視点の限定が、この作品の固有のトーンをつくる)。

重要なのは、因果的な展開としての物語ではなく、1つ1つの出来事(場)のもつイメージの鮮やかさと深さであり、複数のイメージが(非因果的に)連なることによって起る、イメージ間の響き合いと韻律だ。この響きと韻律がすばらしいのだ。

(追記。とはいえ、パレスチナに関する知識が乏しいので、よく分からないところも多々ある。たとえば、最初の場面の意味がよく分からない。あるいは、これも最初の方だが、スレイマンが墓地を訪れる場面があるのだが、これが誰のものなのか、何の意味があるのかも、分からない。隣の老人のする「鷹と蛇の話」も、なにかしらを含意するかもしれないが、それも分からない。)