2022/04/23

●『セブン・デイズ・イン・ハバナ』のエリア・スレイマンのバート(「木曜日 初心者の日記」)をアマゾンプライムで観た。今、配信で観られるスレイマンは、『天国にちがいない』とこれだけだ。

『セブン・デイズ・イン・ハバナ』は、ハバナの一週間を7人の監督が撮るオムニバス。スレイマンのパートでは、いつもの通りだがスレイマン自身が出てくる。アラファートの像が置かれる大使館で「議長」との会見を申し込むスレイマン。演説の後ならばと了解を取り付ける。ホテルへ戻ってテレビで「議長」の演説を観るが終わりそうもない。街に出る。観光客がはしゃぐ海岸、閑散とした動物園とそこで働く老人、化粧を落としたピエロがタバコを吸い車で去って行く様、などを見る。

レイマンの乗った車がエンストして、特に観光スポットというわけでもない寂れた海岸にしばらく居ることを余儀なくされる。海岸には、たった一人でぽつんと居る人が何人もいる。スレイマンは彼等を見る。バーに行く。カウンターにたった一人でいる女性と目が合う。しかし間もなく女性のツレの男性が現われる(これが最初の転換点)。スレイマンは、店にいたカップルに写真撮影を頼まれる。

ホテルに戻るが演説はまだ続く。再び海へ。一人で海を眺めていた黄色いワンピースの女性(エメラルドグリーンの海、褐色の肌、鮮やかな黄色いワンピース)の前に、海の中から潜水服を着た男が現われ(この作品の一番の驚きポイントであり、転換点である)、二人はキスをして去って行く。彼女は「一人」ではなく「待っていた」のだ。つづいて次々と、海岸にたった一人でぽつんと居た人たちのところへ「待ち人」が現われて去って行く。それをスレイマンは一人で見る。

ホテルの部屋。演説は続いている。大使館に行く。大使館のテレビでも演説は続く。演説は終わるが、「議長」はしばらく話そうかと言い、対話がはじまる。

またまた一人で海岸にいるスレイマン。仲間たちと騒ぐ(おそらく地元の)若者たちと、たった一人で海を見ている老婆がいる。双方を交互に見るスレイマン。映画は、一人で海を見ている老婆を捉えるロングショットで終わる。

つまりこれは、「一人で居る」と「待ち人が現われる/現われない」の対比の映画だと言えると思う。スレイマンは「議長」を待つが「議長」はいつまでも現われない(演説は終わらない)。その待機の間、様々な「一人で居る」人を見る。そして、ある人には「待ち人」が現われ、ある人は一人のままだ。

それだけと言えばそれだけなのだが、リズム、反復、ビジュアル、サウンド、180度の切り返しと斜めに交差する視線の交錯、出来事とそれを見るスレイマンの(微かな、微かな)リアクション、対称性と非対称性、などによる(すごく陳腐な言い方だが)詩的韻律というものを強く感じさせる。

レイマンは、イスラエルパレスチナ人であり、そうであるがゆえに、あらゆる行為に政治性や歴史性がまといつく。政治的でない行為はありえない、というくらい過剰な政治性を引き受けざるを得ない。しかしその中で、政治性からこぼれ落ちるような詩的韻律を成立させる。政治性からこぼれ落ちるものだからと言って非政治的なものというわけではなく、それもまた政治性を帯びているのだが、しかしこぼれ落ちる。