●『中二病でも恋がしたい!』のタカナシリッカというキャラをみていると、スクリューボールコメディにおけるキャサリン・ヘップバーンを思い出さずにはいられない。特に、ジョージ・キューカーの『素晴らしき休日』。この映画を最後に観たのは何年前だろうか(たぶん、二十年くらいは経っている)。ここでのキャサリン・ヘップバーンは病的なまでに成長を拒否した女性であり、この映画における(ユートピアとしての)「子供部屋」への執着は異様なものがあった。細かいところは憶えていないけど、この異様さの印象は強く残っている。そして、これを観たぼくは、その異様な幼児回帰の感覚に、自分でもやばいと思うくらい同調してしまったのだった。
この映画で男性(ケイリー・グラント)はキャサリン・ヘップバーンの前に妹の婚約者としてあらわれる。それは通常もっとも性的な関係から遠い位置にいる。男性は「天然」である女性に振り回され、女性は男性への好意をなかなか自覚しない(少なくとも表面上は)。そのような意味で、性的なものが強く抑圧(というか忌避)されている。スクリューボールコメディは一方でセックスウォーコメディとも言われるが、その性的な抗争は象徴化されて作品構造に埋め込まれており、表面上は(登場人物たちの意識や自覚の次元では)抑圧されている。アニメにおいては、表層的・視覚的にはあからさまに性的な記号があふれている(この点で、視覚的にも性的な記号を抑制しているキャサリン・ヘップバーン――たとえば同じジョージ・キューカー監督の『男装』という作品もあった――とは反対だけど)が、キャラたちの意識の次元では必ずしもそれは自覚されない。むしろ積極的に「忘れられて」いることが多い。そのような意味でも、アニメとスクリューボールコメディには通じるところがあるように思われる。
●『PSYCHO-PASS』は、一話だけ観て、なんか炭酸の抜けた「攻殻機動隊(+「マイノリティリポート」)」みたいだと思ってそれ以降観ていなかったのだが、いくらなんでももうちょっと何か仕掛けがあるのだろうと思い直して五話まで観てみたのだが、ここまで観てもやはり、九十年代のアニメみたいだという既視感しか持てなかった。とはいえ、(これが2クールで24話の作品なら)このような予断を見事にひっくりかえしてくれる何かがこの先にあるのではないかという期待も、完全には捨てきれていない。