中野成樹+フランケンズ『遊び半分』についてもうちょっと

●昨日観た中野成樹+フランケンズ『遊び半分』についてもうちょっとだけ。昨日の日記に、この「お話」がまるでスクリューボールコメディのように面白いということを書いたけど、しかしそれと同時に、まるでチェーホフのように面白いとも言える。例えば、チェーホフの戯曲は好きで読むけど、じゃあ、それを上演している舞台を観に行こうという気になるかといえば、ならないと思う。チェーホフの戯曲を、現代の日本の俳優が演じているのを観ようとは思えない。つまり、そこにチェーホフの面白さがあらわれるとはあまり思えないのだ。それよりも、戯曲をただ「読んだ」方がずっと面白いと思ってしまう。チェーホフの現代的な解釈みたいなのは勿論可能だろう。しかし、「現代的な解釈」における「現代性」というのは(解釈の面白さ、新しさというのは)、基本的に、「現代の演劇」という文脈を共有し、受け入れたものたちの「解釈の共同体」の(配置図の)内部でのみ、意味をもつものだろう。それはチェーホフの問題ではなくて、チェーホフを解釈する(現代の)誰かの問題となる。
しかし、中野成樹+フランケンズがやっていることは、古典を現代の俳優たちによって成立させながら、それが「現代的な解釈」の問題となるのではなく、あくまでその原作そのものが提示している問題が、問題とされているように思われた。現代の観客が普通に観ることが出来るものでありながら、そこで提示されようとしているものは、あくまで「原作」の面白さなのだ、という感じがある。つまり、原作をどのように解釈するのかではなく、あるいは、現代的な身体のあり様をことさら強調するわけでもなく、原作の面白さを、今、ここで、我々が、どのようにすれば成立させることが出来るのか、ということが問題となっている。(原作を読んでいないから、きっぱりそうだと言い切れるわけではないのだが、そのような感触がある。)そして、今、ここで、我々によって、成立させることが出来るということが、原作の普遍性の証明となる、というような。これはけっこうすごいことではないだろうか。