中野成樹+フランケンズ『遊び半分』

●赤坂RED/THEATERで、中野成樹+フランケンズ(http://frankens.net/)『遊び半分』。最初、「うわっ、演劇っぽい」と感じて、ちょっとキツいかなあと思ったのだが、すくに引き込まれた。とにかく「お話」が面白い。古典的な戯曲が持つ構造的な力というのを感じる。(アイルランドの劇作家J.M.シングによって1907年に書かれた「西の国のプレイボーイ」という戯曲が原作となっている。と書いて、今気づいたのだが、それで主役の男性がベイスターズの「仁志」のユニホームを着ていたのか。)まるでホークスの『赤ちゃん教育』のように、ルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』のように面白い。どの程度、元になった戯曲に忠実なのかは分らないのだけど、演劇にうといぼくが、「戯曲の面白さというのは、こういうことなのか」と思い知らされた感じだ。あと、舞台装置がすごく面白い。舞台装置そのものが面白いというのもあるのだけど、それ以前に、それほど広いとはいえない舞台の空間を斜めに仕切ったり、それを開いたりすることで、狭い空間を狭苦しくなく、非常に複雑に使う、その空間の分節の仕方が面白いのだった。それは、最初に「うわっ、演劇っぽい」と感じたのと多分繋がっていて、こういう空間の分節は、おそらく演劇の演出としてはオーソドックスなあり方なのだろうと思われる。
ぼくは演劇についてほとんど何も知らないのだけど、この作品は、「演劇」というメディアに固有の問題を非常にオーソドックスに追求しているのではないかと感じられた。それは、古典的な戯曲を、現代の俳優の身体によって「上演する」というのはどういうことなのか、ということであり、それ自体としてフラットな舞台を空間を、装置の移動や俳優の動きによって分節化し、どのように変化させ、動かしてゆくのか、ということだと思われる。それは、古典を忠実に再現するということでもなく、しかしいかにも「現代的」に解釈するというのでもない、非常に微妙な距離感によって成立しているもののようにみえた。その微妙さ(繊細さ)が面白い。ぼくは基本的に「演劇」というメディアに対するアレルギーのようなものがあるのだが、この作品は、そのような自分の偏見について反省させられるというか、いろいろと考えさせられるような刺激的なものだった。(ぼくは最近、「テキスト」と「上演(再現)」との関係というのに興味がある。いや、興味があるというほどたいそうなものではないのだが、とても「引っかかり」を感じている。それは例えば、デュラスやゴダールの映画におけるテキストと映像との関係とはまったく別のあり様をみせる、オリヴェイラの映画の、テキストと映像の、非常に複雑で微妙な関係のようなことだ。例えば『神曲』など、あきらかに、ドストエフスキーを延々と「上演」している映画だし。)
●松井周(サンプル)『カロリーの消費』と、この『遊び半分』は、それについて原稿を書くようにという依頼によって観たのだが、(依頼がなければ観ることはなかっただろう)この二つの舞台が観られたことは(たんに作品として面白かったという以上に)とても良かった。