『冷たい血』

●昨日の『WILD LIFE』(97年)と『シェイディー・グローヴ』(99年)につづいて、今日は『冷たい血』(97年)をビデオで観た。九十年代終わり頃に、いわゆるVシネマと呼ばれるような枠のなかで青山真治がつくっていた映画は、その当時にハマってあまりに熱心に観ていたために、最近ではかえって敬遠していた感じだったのだが、この三本をつづけて観て、自分でも意外なほどに「感動して」しまっているのに驚いた。個々の作品としては、『WILD LIFE』以外は、むしろ疑問や違和感の方を強く感じる作品なのだけど、この、ほぼ同じ主題を、まったくことなるやり方で追求しているともいえる三本の作品をつづけて観ると、その試行錯誤のあり様に、そしてその執拗さ、真摯さに、きわめて強く心を動かされる。それと同時に、青山監督と、ぼく自身との間にあるであろう「根本的な相容れなさ」のようなものも、くっきりと感じられもするのだが、しかしその違いの認識も含めて、感動的であるのだった。
同じ年に公開された『WILD LIFE』と『冷たい血』の間にある断絶が感動的であるのだ。ぼくとしては、『WILD LIFE』の方がずっと「好き」なのだし、『冷たい血』は、上手くいっていない部分や、納得出来ないところの方がずっと多よいうに思うのだけど、それてもなお、『WILD LIFE』から『冷たい血』への(おそらく不可逆的な)ジャンプには、心を動かされるものがある。そのことを改めて確認出来たことは良かった。
●青山監督の映画では基本的に、北九州ものでは、ある種の共同性のあり様がテーマになるのだけど、九十年代終わりのこの三作では、個人と個人とが共同性とは切り離された場所で関係することとして「カップル」の関係性が焦点化されていると思われる。そこで、共同性から切れた個のあり様として、『WILD LIFE』の主人公の豊原功輔は、まだ映画の主人公らしく雄々しく行動することが可能なのだが、『冷たい血』の石橋凌は、空虚を抱えてほとんど立ち尽くすばかりの実存的人物となり、『シェイディー・グローブ』のARATAや栗田麗になると、いじいじするばかりの自分勝手な奴となる(なにしろここでは、常に道化を演じる斉藤陽一郎の方がしっかりしているのだから)、という風に、急速に「困った人度」が進展してゆく。映画のスタイルの変化は、たんに形式上の実験ではなく、このような登場人物のあり様に対応している。そして『シェイディー・グローヴ』は、まったく魅力のない登場人物ばかりで構成されることになる。この点に気づくことが出来れば、『シェイディー・グローブ』のような映画が随分と「受け入れ易く」なるし、青山監督が、このような登場人物を「肯定したい」という動機も理解出来るようになった。(『シェイディー・グローヴ』に、カウンセラーのような「探偵」が必要となるのはこの点からも理解できる。しかし『シェイディー・グローブ』に作品としての説得力があるかどうかはまた別の話だけど。)