昨日、『サッドヴァケイション』を見損なって

●昨日、『サッドヴァケイション』を見損なってしまったので、ウチで『WILD LIFE』(97年)と『シェイディー・グローヴ』(99年)をビデオで観る。『WILD LIFE』は、青山真治監督の映画のなかで一番好きなもので、このサイト「無名アーティストのWIldlife」というのはこの映画のタイトルからとったものだったりする。ずいぶん久しぶりに観たけど、やはりすごく良かった。青山真治という人の映画作家としての飛び抜けた才能と、それと同時にその裏に常にある「痛さ」との同居が、この映画ではとてもうまく絡み合っていると思う。しかし、この映画の良さは、低予算でつくられるプログラムピクチャー(Vシネマ)という「枠」にまもられることで成立しているものであることは否定出来ないだろう。青山監督が『WILD LIFE』のような種類の「良さ」に満足出来ていないということは、その後に『冷たい血』(97年)や『シェイディー・グローヴ』のような映画をつくりはじめることからもわかる。青山監督が、神経症的な転移の磁力(言ってみれば、「仲間内の動向」みたいなもの)に強く引っ張られて作品をつくる作家だということは『シェイディー・グローヴ』をみればあきらかだろう。物語のレベルから、DVカメラによる撮影という技術的なレベルまで、あるいは「批評」を先取りしたようなその作風まで含めて、その時の「旬の話題」みたいなものが、未消化なままであからさまに作品内部に取り入れられてゆく。その結果、『シェイディー・グローヴ』は、ちょっと困った、痛い(いかにもわざとらしい)感じの、しかし、人に思わず「言葉」を発しさせてしまうような(同調や反発のような強い反応を誘発するような、つまり神経症的な転移を強く発動させるような)、作品として出来上がる。(物語的に言えば、この映画には「困った人」しか出てこなくて、困った人たちが互いに関係することによって、どのような化学変化が生じるのか、という話だと思う。しかしまあ、我々の誰もが実は「困った人」であるはずなのだが。それはそれとして、その関係の追いつめ方が中途半端なので、映画全体としての「困ってしまう」感を増幅させていると思うのだが、その「困ってしまう」感がまた、人に多くの言葉を喋らせることとなる。)しかし、そのような映画からも、青山監督は確実に何ごとかの成果を引き出していて(例えば終盤のARATAと栗田麗のドライブのシーン、ARATAが延々と自分語りする時に、後部座席の栗田麗をカメラが捉えつづける薄暗く粒子の荒れたショットの、車の窓の外に夜の街の風景が流れる感じなどは、とても素晴らしいと思った)、こういう困った映画を果敢に(平然と、ずうずうしく、わざとらしく)つくること出来てしまうことが(つまり「失敗作」をつくってしまうことを厭わないことが)、例えば後の『ユリイカ』のような傑作につながっていることが事後的にみればあきらかなのだから、これははっきりと「才能」なのだと言うべきだろうと思った。
●物語上での主題からすれば、『WILD LIFE』と『シェイディー・グローヴ』(と、そして『冷たい血』)には共通性があるし(人がどのようにして「現状」から脱却してゆくのかということ、そしてその場合常に、偶発的な事件と恋愛とが媒介となること)、その主題の構成の仕方としては、『WILD LIFE』よりも『シェイディー・グローヴ』の方が、ジャンル的なものに頼っていない分ただけ、より強いものであり得るとは思われる。しかしその突き詰めは甘いように思う。