2022/03/27

●『シェイディー・グローヴ』(青山真治)をU-NEXTで観た。15年ぶりくらいで観たけど、思っていたより悪くなかった、というか、思いの外よかった。いや、「これはない」というところがたくさんあるのだけど、最終的には力業でもっていかれて、なんとなく納得させられてしまう。

(お話としては、あるいは登場人物の言動としては、違和感があるのだが、映画として面白いので、「いや、それはない、が、うーん、まあ、なんというか、ありでもいいかな…」となる。)

ARATAが、運転しながら延々と一人語りをして、その間、カメラは後部座席でそれを聞かされている粟田麗をずっと撮り続けているという、終盤にあるカットがすごく良くて、それで諸々納得させられてしまうというところはある。あと、脚本にいろいろひどいところもあると思うのだが、身勝手なエリートだった関口知宏が失脚をきっかけに改心し、それによって粟田麗がようやく思い込みから目覚めて急転直下…、というオチ(というか、物語の決着)のつけ方がすごく見事で、その見事さにやられてしまうということもある。はじまってからずっとうじうじした展開だったのが、ラスト近くで急にからっとした感じに逆転して終わる。

ただ、ハッピーエンドなのだけど、この映画の登場人物であるARATA粟田麗のような二人がつき合ったとしたら、その先はほとんど地獄のような状態しか待っていないのではないかという気もする。

(初期の青山真治の作品では、都市のなかの小さな公園という空間が、とても魅力的に使われていることが多いのだった、ということを思い出した。)

(そういえば、この映画を観てはじめて「過呼吸」というものがあることを知ったのだった。)

ARATAの役名が「甲野」で粟田麗の役名が「藤尾」。これは、夏目漱石の『虞美人草』のヒロイン「甲野藤尾」から取られているのだろう。一人の名前を二人で分け合っている。作中でARATAが、「自分には双子の妹がいたが死んでしまった」と言い、粟田麗のことをその「妹のようだ」と言うのだが、実際にもともと一人だった人物が分離して二人になったのだ。

●『シェイディー・グローヴ』の粟田麗と『空に住む』の岸井ゆきのは、現実を自分の(身勝手な)意思でねじ曲げて、それを他人にも無理矢理に受け入れさせようとして過剰にがんばっている、という点で似ているとも言える。それは最後には破綻し、その破綻(現実)を肯定的に受け入れることになるのだが、それが破綻するまでの「無理をしている」状態にある人(その狂気じみたありよう)が、青山真治は好きなのかもしれない。