2021-08-19

●ディックの『流れよわが涙、と警官は言った』を久しぶりに読み直した。この小説は、前半では、遺伝子操作によってスペックが強化された(過剰な性的魅力をもつ)人気番組の司会者であり歌手であるジェイスン・タヴァナーが、自分という存在の痕跡の一切が消えてしまった世界で、何人かの女性との関係によってサヴァイブしていく展開が描かれ、それが後半になるにつれて、警察組織のなかで非常に高い地位にあるフェリックス・バックマンと、その双子の妹であるアリス・バックマンとの近親愛的な関係が前面に出てくる。そもそも、この小説の世界を歪ませている(ジェイスンの存在をないもとにしている)原因はアリスにあり、この小説の世界そのものが「アリスの世界」だと言ってもいいものだ。しかし、今回読み直して、このアリスの存在が意外にもあまり強くないという感じがした。兄の職場(警察署! )に入り浸り、普段からボンテージファッションで、性的な対象は兄だけだと言いつつ同性愛者でもあり、ドラッグを常用し、兄のフェリックスは「彼女にはルールがない」と評するし、兄との間に子供までいる。外からみると確かに強烈なキャラなのだが、彼女のもつ狂気の固有性はそこまで詳細には描かれない。彼女がなぜジェイスンという存在に固執しているのか(ここはすごく重要だと思うのだが)もよくわからない。

たとえば、ジェイスンが「自分のいない世界」で最初に出会う女性であるキャシイ・ネルソンの狂気と混乱、次に利用しようとした女性ルース・レイの語る「愛」についての独自の考えなどは、圧倒されるような強い印象と内的充実があると感じるのだが、それに比べて、アリスには「出オチ」的な強さしかないように感じられる。あるいは、兄のフェリックスは、警察官らしくない趣味と教養をもち、反体制的な学生や思想犯などを強く弾圧している現状を変えようと努力していて、そのためには警察内で高い地位が必要で、だが権力闘争にあたって妹との関係という大きなネックをもっていて、だから、アリスの死後すぐに悲しむ余裕もなくタヴァナーを陥れることを考えなくてはならないというように、複雑で厚みのある人物像として描かれるが、それに比べて、妹アリスは紋切り型の「ヤバい奴」に収まってしまっているように感じられる。

とはいえ、小説の「構成」としては、アリスの狂気はキャシイの狂気として表現され、アリスのジェイスンへの執着も、キャシイによるジャック(夫)への依存として表現されているとも言える。さらに、ルースが語る「愛」を体現(実践)するものとして、フェリックスによるアリスへの愛があるとも言える。小説に説得力を与える具体性を担当するのがジェイスンと女性たちのパートで、そしてその具体性を受肉し、感情として発現させ、表現しているのがフェリックスという人物だ、と言えるのかもしれない。故に、フェリックスの愛の対象であるアリスは、イメージとして派手ではあるが、存在としてはやや抽象的なものとなっているのかもしれない。

今回読んで最もおもしろく、かつ圧倒されたのは、キャシイという人物とその狂気だった。キャシイはまったく混乱していて、その混乱によってジェイスンを支配する(アリスはキャラとして強烈だが、キャシイは決してキャラとして像を結ばないことによって強い存在感を示す)。混乱によって(結果として)男性を支配する女性という像は、ディックの小説に多く登場するが、そのなかでもキャシイは混乱の度合いと充実度が特にすごい。

また、存在しないのに(キャシイにとっては)「存在する者」として機能するジャックという人物と、存在しているのに(アリスによって)存在しないことになってしまっているジェイスンは、そのありようとして反転的対称性があると言える。またキャシイは、有名人ではない人物を有名人と思いこんで、その相手と寝るのだが、実際に有名人であるジェイスンを有名人とは思えない(有名人ではない相手として寝ようとする)。

●以下、引用。引用する場面では、キャシイがジェイスンに向かってしゃべっている。キャシイの混乱のこの複雑さ!

( 「ジャック」はキャシイの夫で、キャシイは彼が強制労働収容所にいると信じて、彼の釈放のために警察への密告者となっている。しかし、キャシイの密告を受ける警察官マクナルティは、ジャックは強制労働収容所にいるのではなく、事故で亡くなったのだと言う。)

《「あなたはジャックより魅力的よ。ジャックにも魅力があるけど、あなたはもっと、もっと魅力があるわ。あなたに会ってからは、もう二度とジャックを本気で愛せなくなったのじゃないかしら。それとも、人間はふたりの相手を平等に、でもちがった愛し方で愛することができると、思ってるの? わたしの治療グループは、だめだ、どちらかを選ばなくてはいけない、そう言うの。それが人生の基本的な一面だと言うのよ。前にもあったことなの。ジャックより魅力のある男性には何人か出会ったの……(…)もしあなたのような人のほうがジャックより好きだとしたら、そのときはわたしはその気持ちを行動に移すほかないの、わたしたちの治療グループのように、わたしが八週間精神病院に入ってたのは知ってる? アサトンにあるモーニングサイド精神衛生院。(…)友だちもうんとできたわ、わたしほんとうによく知っている人というのは、モーニングサイドで知り合った人がほとんどなの。もちろん、あのころ初めてあの人たちに会ったときには、みんなのことをミッキー・クインとかアーリーン・ハウのような有名人だという、妄想にかられたんだけど。(…)」》

《「たぶんあなたも有名人じゃないのね。わたし、あの妄想を抱いたころに逆戻りしたのかもしれないわ。いつか逆戻りするだろうって言われたけど。遅かれ早かれね。(…)」》

《「それじゃわたしはきみの幻影のひとつになってしまうよ。もっとしっかりしてくれよ。生きてる気がしない」

キャシイは笑いだした。しかし憂鬱な気分は変わらなかった。「あなたがいま言ったように、もしわたしがあなたを作り上げたとしたら変じゃない? もしわたしが完全に回復したら、あなたは消えてしまうの? 」》

《「(…)わたしはあなたのように有名でもなければ力もないのよ。ジャックをほかのだれよりも愛しているからといって、そのために他人を投獄するような恐ろしい、おぞましい仕事をしている人間にすぎないのよ。ねえ、聞いて」しっかりした、きびきびした口調になっていた。「わたしを正気に引き戻したのは、わたしがミッキー・クインよりもジャックを愛していた、ただそのことだけだったの。ねえ、このデイヴィッドという男性は本当はミッキー・クインなのだ、そうわたしは思ったの。そしてね、ミッキー・クインは気がおかしくなって、健康を取り戻すためにこの病院に来てるけど、それは重大な秘密になっていて、彼のイメージを台なしにしてしまうからだれも知らされていないんだって。(…)スコット先生は、ジャックかデイヴィッドのどちらかを選ばなくちゃいけないと言ったの。というより、ジャックかミッキー・クインとわたしが思っている男と言ったほうがいいかな。わたしはジャックを選んだの。そしてわたしは退院したのよ。たぶん」》

《「あなたもかなりわかってきたわね? わたしとジャックのこと、なぜジャックを裏切らずにあなたと寝られるかってこともね? モーニングサイドではデイヴィッドと寝たけど、ジャックはわかってくれたわ。わたしがそうせざるを得なかったのを知っていたのよ。あなたはわかってくれたかしら? 」

「もしきみが精神異常だったとすれば---」

「ちがうわ、そのせいじゃないの。ミッキー・クインと寝るのはわたしの宿命だったのよ。当然のことだったの。わたしは自分の全宇宙的な役割を成就しようとしたのよ。わかるかしら? 」》

《「ジャックはわかってたわ。とにかくわかったと言ったわ。彼、嘘をついたのかしら? わたしを失いたくないから? 彼とミッキー・クインのどっちかを選べということになったら」---キャシイは一息ついた---「わたしはジャックを選んだわ。いつだってそうするわ。それでもわたしはデイヴィッドと寝なくちゃいけないの。ミッキー・クインという意味よ」》

《「ジャックのことをしゃべったんだな」マクナルティはジェイスンに向かって言った。「ジャックはいない。彼女はジャックがいると思っているがね、それは精神異常からくる妄想だ。この女の亭主は飛行艇の事故で三年前に死んでいる。彼は強制労働収容所になど入ったことはない」

「ジャックは生きているわ」とキャシイは言った。

「わかったかね? 」マクナルティはジェイスンに言った。「彼女はかなりうまく世間に順応しているが、この固定観念だけは別だ。これは消えないんだな。生活のバランスを保つためにずっと手放さないだろう。」マクナルティは肩をすくめた。》

(存在しないのに存在するジャック、本当はミッキー・クインであるデイヴィッド、有名人のミッキー・クインよりジャックを愛していたから正気に戻れた、しかし、ジャックを選んだにもかかわらず、ミッキー・クインであるデイヴィッドと寝ることは避けられない、同様に、ジャックを愛しているにもかかわらず、ジャックを裏切らずにジェイスンと寝なければならない、そして、ジェイスンは有名人なのに無名だし、存在するのに存在しない…。これだけ密度ある混乱を描き出せるディックはすごい。)