2022/09/18

●『初恋の悪魔』、第九話についてもうちょっと。一方で、弟から見た兄があり、もう一方で兄から見た弟がある。これが分離したまま自律しているのは、弟と兄の間に断絶があり、通路がないことによる。同様に、一方に松岡1がいて、他方に松岡2があって、その二つが分離しているのは、松岡1と松岡2の間に「記憶」の不連続(断絶)があるからだ。もしここに記憶の通路が通るとすると、松岡1と松岡2との排他性はなくなる。しかし同時に、二つの松岡が統合されることで、それぞれの自律性も消失してしまう。それはもはや、松岡1と松岡2の共存ではなく、質的変化を伴う新たな松岡3の出現であり、松岡1と松岡2の消失を意味するだろう。

九話の最後で、菅田新樹に刺されそうになる寸前に、松岡茉優は、林遣都と仲野太賀の顔をそれぞれ思い浮かべる。それはもしかすると、この事件のショックによって、分離していた二つの記憶の間に通路が生まれるということを表しているかもしれない。だが、もしそうだとすると、この話はどうなってしまうのだろうか。

(松岡が菅田に語る「根拠のない大丈夫は優しさでできている」というのは、仲野が松岡1に向けて言った言葉だが、それを松岡2が語っている。)

共存と統合とは違う。とはいえ、例えば仲野1と仲野2の間、林1と林2の間には、記憶の連続性があるとはいえ、両者が統合されているというわけではなく、モードの違いとして分離されたままで、共存しているとも言える。だとしても、松岡1と松岡2とが、記憶を連続させつつ、モードとして分離したまま共存しているという状態は、なかなか考えにくい。それは記憶が分離している時よりも、さらに深い混乱状態と言えるかもしれない。

(まあ、これはひねって考え過ぎで、単に「松岡2の消失の予兆」というだけのことかもしれないが。)

●九話で、林遣都の言う「殺人者は我々の隣人だ」と言う言葉と、安田顕の言う「殺人者は特別ではない」という言葉は、一見似ているようで、実はかなり違うことを言っている。林の言葉は、殺人者を理解しよう(理解しようと努めなければならない)とする態度から出ているが、安田の言葉(心の闇や諸事情は誰にでもあるが、誰もが殺人を犯すわけではない)は、「自己責任論」につながりかねない危うさをもつ。安田は「抑制できなかった柄本佑(第四話)」の相似形であり、正当な手続きを逸脱して暴走している。

追記。林は、自らを潜在的な殺人者(殺人者であったかもしれないが、運よくたまたまそうでなくて済んでいる)と見做している。これはいわば『MIU404』と共通する「分岐点」的姿勢だ。だが、安田は、我々の境遇は変わらないのに、私は殺していないが、お前は殺している、という線引きをして「私は違う/お前は違う」と言っている。つまり、林は殺人者との潜在的な連続性を見ているが、安田は顕在的な非連続性に重きを置いている。

(とはいえ、必ずしも「安田が間違っている」と言い切れるわけでもなく、ここでもまた、ものごとには二面性がある――両面を見る必要がある――ということでもあると思う。)