引用、メモ「アインシュタインはなぜサイコロが嫌いか?」(樫村晴香)

●引用、メモ。視覚と言語と確からしさ(との結びつきが、他者との関係に依存すること)について。ここで重要なのは、例えばヒュームなら「習慣」という言い方しか出来なかった世界の(意味的関連の)確からしさを保証するものが、子供の頃に、非対称的な関係(絶対的な存在)である親から、一挙に(先取り的に)、徹底した受動性のなかで贈与された言語の効果だとして、明確にされていることだろう。つまり、言語活動(言語を用いた意識的思考)には常に、その裏に、それが与えられた子供の頃にあった親への依存の感情が反映している。そのような他者への依存(絶対的他者への信頼)の感情こそが、言語の確からしさを支え、視覚的認知の確からしささえ、それと結びつくことによって支えられる、と。(例えば量子力学は、そのような「他者への依存=愛=幻想=確からしさ」を支える日常言語とはことなる演算規則でなされるために、幻想(=世界への信頼)の破壊と抑圧物の回帰の「隠喩」となり、それは人文系の人にもインパクトを与えるし、アインシュタインはそれに抵抗する、と。)
以下、引用は「アインシュタインはなぜサイコロが嫌いか?」(樫村晴香)より。
●《例えば、ここにサイコロがあります。これからそれを振るとすると、1の目が出る確率は6分の1であり、一方、このサイコロの辺の長さは全て2センチで、重さは8グラムです。人間の生得的思考では、この6分の1という数値と、他方の2ないし8に同じ権利を与えること、つまりどちらも実在物についての厳然たる客観的、現実的な値だと考えることは困難です。》
《まず確認すると、6分の1は全く客観的な値で、つまりその数値自体、実在物だといってもかまいません。これは、サイコロの白い色という属性は、それ自体実在するものだといってもいい、というような意味においてです。日常的思考がこの数値を実在物として認められないのは、端的にはこの数値が、波束の収束と同様、一回の実験という観測結果に保存されないからで、さらに、この数値を出現させる無数の試行という膨大な時間が、すでに述べたように、人間の思考と行動の経済原則に合致しないからです。人間的主体は確かさというものを、限定された時間内での対象把握に基礎づけるようにできていて、確率の数値を一回限りの観測との関係であくまで理解しようとするラプラス的な傾向も、この原則の上に立っています。ただ、人間が瞬間的・視覚的な捕捉可能性と、物事の確かさ、つまり実在物としてのステータスを等置する背景には、単に知覚的な認知だけでなく、確かさの一方の支柱をなす言語的思考もまた、無時間的共時性にその明証性の根拠をおいている、という事情があります。》
《さて、6分の1が客観値だと認めづらい人も、例えばここで、このサイコロには少し歪みがあり、1が出る確率は6.13分の1である、というように与えられると、一般に数値の客観性を少し納得しやすくなります。この印象の普遍的変化は見逃せません。ここで人間的思考は、自分の保有しない数値を他者から一挙に与えられることで、その一挙性の方に注意を奪われ、その数値の検証と析出に要する時間の方はさっさと忘れてしまうのです。数値が6分の1の場合は、それがあまりに既知なので、この贈与の一挙性が駆動しません。つまりここで主体は、確かさの根拠を、視覚的ないし直接経験的な一挙性から、言語の一挙性へとずらしたのです。
ただし、この言語の一挙性とは、端的には他者からそれが受動的に与えられる、ということで、これは人間が言語的世界に参入する時の、親と子の絶対的非対称性、という原初的体験ないし構造を再現しています。言語がもつ瞬間性と、その瞬間性が与える確からしさの感触は、生物にとって母親や同類が与える信号は、それを無条件に受け入れるのが生存にとって有益だということ、つまり何かを自分で直接認知するより同類の信号に従う方が、より多い認識上の利得を得られることに、元来基づきます。いずれにせよ、認識の労力を最大限節約するという、フロイトの用語でいう快感原則が、人間的思考の根幹を規定するのです。ただしその快感原則は、一見すると視覚の一挙性に依存しているようでも、このように実は言語の一挙性、さらに言語が贈与される時の他者との非対称的関係に依存していることが多く、しかもこれらは相互に支えあっているので、そのことは常に念頭におかねばなりません。》
《ともかくここで確認したいのは、古典力学的な思考において、客観性や実在性の根拠として当然視される、観測あるいは認識の一挙的瞬間性とは、単に視覚的認知の習慣に由来するものでなく、日常言語の演算規則の効果を、不断に受けていることです。そしてさらにこの根底には、他者との関係が存在します。明証性とは、しばしば視線の全能性と混同されますが、これは言語の演算組成と他者ないし母への依存の効果の下にあり、この全ての要素の絡み合いは、神経症的な幻想において常に完璧に観察されます。ソフォクレスオイディプス物語を、ぜひ直接読んでください。あるいは普通の人の場合でも、例えば子供時代の記憶に自分の姿が見えるような感じがし、さらにそれを見るもう一人の自分も感じられる、というような二重性の形で、この幻想は容易に体験されます。ここで記憶は、画像情報としては実際はほとんど解体し断片化しており、それを言語的思考の効果のもとで、再度視覚的イマージュへと再組織化する過程で、この二重化が生じます。つまり、言語的記述や判断が、その一挙的な確かさを自己確信する根底には、他者の言語組織への受動的同一化の過程がもともとあるので、思考の効果のもとで視覚的一挙性が再組織化され造形される時、その視覚像の視線の場は、他者の場所を自然に採用することになり、そこで記憶の中にある自分と、それを見る視線とが、事後的に分離されることになるのです。
このように、古典力学がよってたつ観測の視覚性への要求は、複雑な組成のもとにあり、特に日常言語の効果を受けています。つまり量子力学への感覚的抵抗は、日常言語の演算規則、つまり古典論理学の現実的効果であり、しかもそのさらに下には、他者への幻想的、神経症的な依存関係が存在します。アインシュタインの場合、それはプラトニスムという素朴さで発現し、これはアメリカに共にいたラッセルが、酷評しつつ的確に証言しています。ですから逆に言うと、ハイゼンベルグのマトリクスで駆動する演算規則、つまりオーソモジュラ束量子論理が、古典論理と異なる仕方で駆動し、それを否定する時、人は自己の幻想が破壊され、同時に忘れていた抑圧物に出会うような驚きを感じるのです。今世紀中葉の、論理学の領野での量子論理への大いなるリアクションは、この精神分析的要因を抜きにして語ることはできません。そしてそれは、言語と意識が思考の全てだと信じて疑わない彼らからは、けっして語られることのない要因です。》