●『ひとのことばの起源と進化』(池内正幸)を読んだ。言語について人間の進化の過程をみることによって明らかにしようという進化言語学の本。この本のことは以下のブログ(東京永久観光)で知り、興味をもった。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20130303/p1
●この本にはざっくり言って三つのことが書かれている。(1)すべての言語に共通する普遍的な構造について(併合と階層-回帰構造、そしてこころへの依存性)。(2)言語の起源、言語の普遍的構造の根拠(言語の起源-根拠は「所有」という心的状態にある)。(3)言語はコミュニケーションのために進化したのではない(言語は主に思考の道具=内言=モノローグとして進化した)。これら三つのことは当然、相互に絡み合っている。
(1)について。まず、動物の言語と人の言語の大きな違いに「こころへの依存性」があるという。これはフロイトが、人間の心にとっては幻想と現実は同じ強さをもつと言っていることとも対応するように思う。例えばミツバチのダンスやベルベットモンキーの警戒の声などは、複雑な形式をもち複雑な内容を表現し得るのだが、それは必ず現実(外的状況)と関連している。ベルベットモンキーが声をあげる時、それは必ず実際に敵が接近している(少なくともそう認識されている)ことを意味する。実際の敵の接近(仮に錯覚だとしても、そう信じられてはいる)と切り離して、敵の接近を想定する-想像する-そのような想定を操作-思考する、ために言語が使われることはない。しかし人間の言語は、そのような外的状況との直接的なつながりをあらかじめ断たれている。それははじめから心のなかにあり、故に、外的状況とは無関係に操作し得るものとしてある。
次に階層構造と併合。例えば「若い男と女」という表現があったとする。これはたんに「若い」「男」「女」という三つの語が順番に並んでいるだけではない。この表現には二つの意味が想定され、「若い」が「男」だけにかかるのか「男と女」にかかるのかで違ってくる。〔若い「男と女」〕なのか〔「若い男」と「女」〕なのか。右から左へ、前から後ろへと線的に流れるだけの語の連鎖から、人は自然に、(意識の介在を得ずに)暗黙のうちに階層構造を読みとる。このような階層構造はすべての言語に存在し、ということはつまり、人(という種)はこのような階層構造を頭のなかにあらかじめ生得的に有していることになる、と。そして人間以外の動物(の言語)は、このような階層構造を使えない。
(余談となるが、「若い男と女」という表現で、「若い」が「男」を飛び越えて「女」にだけかかり、「男」と「若い女」という意味ともなり得るような言語は世界に一つもないという、これは人間の認知限界に関わるのかもしれない)。
併合とは、二つの要素(語や構造)を組み合わせ一つのもの(階層)とし、それにラベルをつけるという操作のこと。例えば、「隆史がごはんを食べた」という文があるとする。ここでまず、多くの蓄積された語彙のなかから「ごはん」という名詞と「食べる」という動詞を取り出して、「ごはんを食べた」という組み合わせをつくり、この全体を動詞句というラベリングする。そしてさらに、その動詞句全体の主体として、名詞句としてラべリングされた「隆史」が動詞句に追加される。文「隆史がごはんを食べた」を形作る階層構造はまず、文-名詞句-名詞「隆史」と文-動詞句「ごはんを食べた」の二つに分割され、動詞句「ご飯を食べた」はまた、文-動詞句-名詞句-名詞「ごはん」と文-動詞句-動詞「食べた」に分割される。このような階層構造は、「ご飯+食べる」を併合して一つの単位としてラベリングし、それにさらに「隆史」を併合して、上位の単位とすることで成り立つ。このような『〔「併合・ラベリング」+併合・ラベリング〕+併合・ラベリング』という階層化は原理上、いくらでも付け足してゆくことができる。例えば、「菜々子は、隆史がごはんを食べた、と思った」という風に(下の方にある図を参照)。
このような、《それ自身のあるステップの出力を次のステップの入力とするようなプロセス》を、回帰的操作という。このような回帰的操作は、地球上にあるすべての言語に共通して存在するという。
ここで面白いのは、併合によって組み合わされた二つの要素(例えば「ごはん」と「食べる」)は同等・同列であるのに、言語は線的であるからどちらかを先にしてどちらかを後にしなければならなくなる。そこで、日本語だと目的語である「ごはん」が先にくるのだけど、英語だと動詞である「食べる」が先にくるという、言語による語順の違いが生まれる。しかしその違いは恣意的であり、構造上はどちらもかわらないことになる。
●(2)について。人間にのみ固有な言語の構造が「生得的」なものであり、それを進化の上から説明可能だとすると、それが「何の機能」から突然変異したものであるかを考えることで、その起源を問うことができる。つまりそれは、人間に固有で、人間の言語の普遍的特徴でもある、階層-回帰的構造が、言語以前の何に根拠をもち、どこから生まれて発展したのかという問いになる。この本では、それを「所有」に関する心的な状態ではないかとしている。
人間の言語に固有な階層-回帰的な構造とは、(一)それ自身の出力を入力とするやり方で、それまでにつくられた構造をメンバーとする集合をつくる、(二)原理的にはその操作を無限回繰り返せる、(三)それぞれの操作でつくられた階層構造にラベリングする、ということだった。同様の操作が所有にもあるという。
高度な石器などがまだ数多くなく、日常的にはつくられていなかったと思われる中期石器時代、そこに生きるホモ・サピエンスたちには「貴重品」という概念があったのではないか、と推測される。彼らはいくつかの貴重品を他の人(集団)の所有品とは区別し、「自分のもの」として一つのグループにまとめてある場所によけておくという、心的および物理的な操作を行っていたと仮定できる。これは(一)の操作ときわめて近いと思われる。「自分のもの(あるいは自分たちの集団のもの)」として他から隔離、保存し、そこに「自分のもの」というラベルと、それが「何(どのような由来のもの)であるか」というラベルを付したとすれば、それは(三)の操作に近い。
例えば、人(あるいは集団)Aが、先祖から伝わる貴重品、V1、V2、V3を所有しているという心的(そして物理的)状態をもっているとする。そしてそれを、〔「V1、V2、V3」=A`s〕と表現されるような形で心的に認識しているとする。加えて、別の集団Wとの戦闘で戦利品V4を得たとする。この時、Aの貴重品所有に関する心的状態は、〔「V1、V2、V3、V4」=A`s〕とはならず、『【〔「V1、V2、V3」=A`s〕、〔「V4」=W`s〕】=A`s』となるはずであるとする。つまり、すべての貴重品が「自分のもの」として並立的にあるのではなく、心的には(それが「どのような由来のもの」であるかという)階層構造とラベリングが生じるであろう、と。そこからさらに、友人BからV5、V6を譲り受けたとすると、{《『【〔「V1、V2、V3」=A`s〕、〔「V4」=W`s〕】=A`s』、〔「V5、V6」=B`s〕》=A`s}となるはずだ、と。そしてこのような階層化は、(二)のように原理的には無限に拡張し得る。
(これでは分かり難いので下に図を示す。)

そして上の図のような「所有の階層構造」は、下の図のような「言語の階層構造」にきわめて似ている、ということになる。つまり、このような「所有」に関する心的、物理的な操作を、言語的な操作の直接的な前駆体と考えることができるのではないか、となる。

●そして(3)の、言語はコミュニケーションの道具として進化したのではないということ。ここでは、言語は確かにコミュニケーションの道具として使われているし、そのために非常に有用なものではあるけれど、しかしそれは、たまたま「使える」から使っているのであって、言語がコミュニケーションに最適化するように進化したわけではない、ということが言われている。
確かに、もし(2)で言われたように、言語の前駆体が所有についての心的(および物理的)状態であるとすれば、言語の機能はまずは財産の整理であり管理であり、それは他へ向けての表現的なものであるよりは内的(内省的)な過程であると言えるだろう。
そして(1)で言われているように、人間の言語が、外的な状況から切り離された内的なものであり、その普遍的構造が、階層的、回帰的(ある演算の出力が次の演算の入力となる)であるとするならば、それは表現-伝達の効率性や正確性よりも、内省-思考の道具(複雑な思考を可能にするもの)として、より適当であるとは言えるだろう。
●この本に書かれていることはとても面白く、また説得力があるように思われた。しかし同時にそれは、言語の一面でしかないのではないかという気もする。例えば、人間の言語が他の動物たちの言語とは根本的に別のものである(別の進化的な由来をもつ)ということが確かだとしても、それと同時に、他の動物と連続した、動物と同様の(人間的言語とは別の)言語もまた、人間においても同時に作動していると考えられるのではないだろうか。だとすれば、異なる原理のハイブリッドがどのように作動しているのかをこそ、考える必要もあるのではないか、とか。