●『血を吸う宇宙』(脚本・高橋洋、監督・佐々木浩久)をDVDで。これ、観るの何度目だろうか。はじめて観た時は、あまりピンとこなかったのだが、繰り返して観れば観るほど面白くなってくる。
ぼくにとってこの作品は高橋洋の作品ということになるのだが、例えば黒沢清フレーミングと空間表象によって何かを語る作家だとすれば、高橋洋は、そもそも、世界の基盤であるはずの時間と空間とが「成り立たない」という作家なのではないだろうか。『血を吸う宇宙』は、観終わった後であらすじを言うことが困難な作品なのだが、その理由は、回想としてはじまる物語のなかでさらに回想がはじまり、その回想内回想が回想内の現在時に戻って来ることがないままで、最初の回想の起点の場面に戻ってしまうから、物語としての一本の筋が通っていなくて、複数の枝分かれした筋が、放置されたままで映画が進行してゆくからだろう。さらに、その回想の内部で、今までのことはみんな夢だったという「夢オチ」が挟まるのだが、しかし、どこからが夢なのかがという夢の起点が示されないので、夢と現実という位相の違いが成立せず、そもそも映画のはじまりである回想の起点すらも夢かもしれないということになる。だから、目覚めたところで、今までのこと全部無しってことかもしれない。つまり、夢も回想も、回想内でのさらなる回想も、それらの全てを支えている起点であるはずの現実の現在時も、「スクリーン上で今、起こっている出来事」として同等であるしかなく、階層的な秩序(構造)が成り立たない。世界が、複数に分岐したまま収束点なく放置される。それはつまり、「世界」が成り立たないということだ。
ここで世界は、可能世界的なパラレルワールドとは異なり、あきらかに、ある妄想的偏向によってねじ曲げられることによって分岐するのであって、つまり、それは理論的な思考実験のようなものではまったくない。強い妄想-欲望こそが世界を分裂させ、時間と空間をなし崩しにし、世界の基盤であるはずの因果律を崩壊させる。ここで世界の起点としてあるのは、強い偏向を起こさせる力であり、妄執-感情であって、それが世界の基底であるはずの因果律よりも強く作用する原理となる。複数の可能性として世界が同時並立するのではなく、妄執-感情が否応もなく世界を分裂させるのであって、それ以外の可能性はない。世界は必然的に分裂するのであって、それ以外の選択肢はなく、そこから逃れることは出来ない(つまり運命である)。世界の同時並立性を保証する(そのしるしとなる)、複数の世界の間での人物の同一性(A=A)さえも成立していない(うつくしい恋人とむさくるしいおっさんが同一人物であると同時に、一人の俳優が複数の人物を演じもする)から、世界は分裂しながらも混じり合い、つまりそこでは輪廻が抑制されることなく作動しつづけ(輪廻からの解脱は不可能であり)、あらゆる秩序が成立せず、死すらもリアルではなく、世界のすべてが疑わしい。辛うじて成立している、信用ならない、仮の、今、ここというイメージと、現実なのか妄想なのか判断できない断片的な記憶の乱反射だけが世界のすべてであり、潜在性-記憶-無意識が基盤となって世界を支えることがない。だから、意識がいったん途切れると、その都度、世界がいったんゼロになり、すべてが更新されているかもしれないという不安が起こる。
世界を、イメージを、辛うじて成り立たせているのは因果律や自同律ではなく妄執であり、妄執のとる紋切り型の形態であろう。それはアブダクション(宇宙人による誘拐と強姦)、自らの分身-鏡としての娘・姉・人形への固執、絶対的な権力者であり、強姦者である父-国会議員、裏切る者としての母、特別に選ばれた者としての「私」、秘密結社の暗躍と国家権力の陰謀、魔術を使う霊能者、処女懐胎あるいは処女性と血、排泄物への嫌悪(トイレのない家)等々、それら一つ一つは陳腐であり、紋切り型のものでしかないが、しかし、その紋切り型の形象によって、辛うじて世界は形を得ることが出来る。紋切り型の形象たちは、ただ紋切り型と言って済ますことが出来ないほど、互いに密接に、そして複雑に絡み合ってはいる。だがそれぞれの形象は仮のものであり、陳腐な紋切り型でしかないから、それを頼りに世界とアクセスしようとしても、夢のようにあやふやで、能動的なはたらきかけに対して返ってくるものが予想できず、つまり能動性は剥奪され、世界が自動的に進行してゆくのに身を任せるしかない。ここでリアルなのは、妄執による陳腐な形象そのものではなく、その陳腐な形象を繰り返し呼び寄せてしまう、(世界の原理よりも手前に存在する)世界を「偏らせる力」そのものであり、存在することそのものがもつ傷のようなものだろう。
●新宿のジュンク堂に、佐々木敦×栗原裕一郎トークを聞きに行く。帰りに、ジュンク堂でやっている文学拡張フェアのために、色紙と、自分の本にサインを書いた。色紙にはドラえもんを描いた。ドラえもんの連載がはじまったのは、ぼくの生まれた1967年で、ぼくが物心ついてはじめて読んだマンガも『ドラえもん』だった。