福永信「午後」(「新潮」2月号)。これはすばらしい。「すばる」1月号に載っていた「一一一一」は、決めすぎというか、整いすぎでイマイチだと思ったのだけど(「文藝」の「一一一一三」はまだ読んでないけど)、「午後」は、ABCDシリーズの前作「ここ」(「新潮」07年12月号、ここ、が、ごご、になったわけだ)を上回るくらいに面白いと思った。もともとぼくは、福永信という作家にそれほど興味があったわけではないのだが、たまたま読んだ「ここ」があまりに面白かったので、それ以前の作品をさかのぼって読み直し、認識を改めた(そして福永信論まで書いてしまった)のだが、「午後」はそれがさらにパワーアップされたような感じだ。ABCDシリーズの福永信は、ほとんど前人未踏の領域に達しつつあるようにさえ思う。
「午後」は、(1)一つ一つの文のレベルで面白い、(2)文から文へと移行する展開というレベルで面白い、(3)作品全体の構造というレベルで面白い、(4)ABCDシリーズの他の作品との関係というレベルで面白い、という、四つの異なるレベルのすべてで面白い。しかも、そうであるにもかかわらず、それぞれのレベルが、他のレベルの拘束をあまりうけていなくて、それ自体で自由に動いている感じがする。小説に限らず、あらゆるジャンルの「作品」で、細部の生き生きした動きと、全体としての構造の緊密さと、その中間で動いている動き-展開の面白さとの、それぞれが互いを拘束することなく、しかも緊密に絡み合って成立するということは、きわめて困難なことだと思われるのだが、「午後」ではそれが成り立っている。細部と全体との関係が、こんなに緊密なのに、こんなに自由な作品というのは、そうそうあるものではない。これはすごいことだと思う。
とにかく、一文、一文を読み進めながら、何度も、おお、そうくるのか、と驚いたし、何度も吹き出したし、何度も泣きそうになった。つまり、息を呑むような意外な展開があり、笑いがあり、涙があり、と盛りだくさんで、それが短い小説のなかに高密度に圧縮されている。一つ一つの文のレベルで、一時も留まることなく常に何かが動いているので、その面白さを味わうためには、読んでいる側も一瞬も気を抜くことが出来ず、一文もおろそかに読むことは出来ない。しかし、丁寧に読みさえすれば、決して難解な作品だというわけではない。
(この作品を読もうとする人は、是非、「新潮」07年12月号をどこかから探してきて、「ここ」とあわせて読むことをお勧めしたい。面白さが何割も増すと思う。)
それにしても、「午後」を読んで改めて思うのは、やはり「B」以外はみんな「生きている人」ではないんだな、ということで、そこにこの小説の自由さがあるのと同時に、それはとても悲しいことでもある。