●昨日書いたことは、大江健三郎の『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』を読みながら感じたことを書こうとしたものだった。連載中にわりとさらっと読んだものを、改めてじっくり読み返している。本を買うお金がないので、「新潮」のバックナンバーを探し出し、引っ張り出して読んでいる。昨日読んだのは、「新潮」07年6月号に載った、序章と第一章のところだけだが。
大江健三郎の小説は、内容はとりあえずともかくとして、文章がとても面白い。物語としての構成は、けっこう通俗的で、最初に、小説家の「私」と「光さん」という、おなじみの人物が「現在」の時点で「歩行訓練」をしている場面が提示される。そこに、過去に関係があったらしい人物(木守)が不意に現れて、その(読者にとって)「謎」の人物との会話を通して、「謎」の人物の印象が強く刻まれ、二人の間に三十年前に何か事件があったらしいことがほのめかされる。同時に、その事件と密接に関係するらしいもう一人の人物「サクラさん」の存在もほのめかされる。つまり、最初にぐっとインパクトのある謎の人物とともに「謎」が提示され、その謎をめぐって物語が進行してゆくのだろうとほのめかされつつ、その物語の背景となる基礎的事実が少しずつ読者にあかされてゆく。そしてその後、回想にはいってゆく。
その手つきは、「これからというところ」でコマーシャルが入る、通俗的なテレビバラエティのように、これみよがしに謎めいた「しるし」が提示され、そうすると、話がするっと脇の方に逸れて、しばらくして忘れたころに、提示された「謎」の幾分かがふっと解かれたりする、という感じだ。つまり、読者を引っ張る「謎めいたしるし」の提示と、それが少しずつ、意外な形で解かれてゆくことで、読者を引っ張ろうとしている。
しかしそれが、単純な、あるいはわざとらしい、伏線とその回収という風にはみえないのは、「謎」のほのめかしと、その開示とが、様々な次元で無数に埋め込まれていて、例えば、謎1の提示、謎2の提示、謎3の提示、謎2の部分的開示、謎4の提示、謎3の部分的開示、謎2の残りの開示、謎1がさらに深まる……、みたいにして、様々な次元の謎が、大きな波小さな波のようにしてつぎつぎと押し寄せては、それが一部解かれたり、あるいはさらに謎が深められたりと、複雑に折り重なりながら屈折し、波動のように揺らめくドレープをつくりだしているからだと思う。それが、エピソードや場面の単位ではなく、もっと細かな「文」や「語」の単位で行われている。
さらにそこに、いくつもの文学作品の引用が接続され、さらに、一つの事柄が何度も形を変えて言い直されたり、置き換えられたりもするし、ちょっとした細部が、後で意外な意味をもって拾われたりもする。だから、物語として要約すれば、語られているこは割合シンプルだし、構成も通俗的だとさえ言えると思うのだが、記述の次元での複雑で細かな振動や反響や対照や落差やずれ込みや軋みが、読んでいる者の頭を激しく回転させ、昂揚させる。大江健三郎の小説をテマティックに分析すれば、とても複雑なダイアグラムが描かれるだろう。しかし、重要なのはそのこと自体ではない。この様々な異なる次元が織り込まれ、畳み込まれた屈折によって、「読む」ことの強い手応えが読者に押し返される。そしてこの強い屈折は、「読む」ことの線的、継起的な時間の流れすらも歪ませるほどに強い力をもつように思われる。このことこそが、重要なのだ。
●ところで、昨日書いた「ABCD」という配置という話では、「ABCD」はあくまで対象であって、それを見ているXはそのフレームの外にいる。しかし、「ABCD」という配置が「空間」としてあらわれるとすれば、人は、ある空間を、そのなかで自分がどのように運動することが可能なのか、という興味、あるいは利害との関連によって構成するはずだろう。例えば絵画は、純粋な視覚性としてではなく、「ある運動の可能性として空間」として感知されているはずなのだ。実際に、絵画作品のなかに入って「運動する」ことは不可能だが、そこではバーチャルな次元での運動の感覚(地図を見る時のようなもの)、あるいは、身体的運動の待機状態という「興奮状態」で作動する「脳そのものの運動」の可能性として、開かれるはずなのだ。だとすればそもそも、風景を見るXが、フレームの外側から空間「ABCD」を構成するのではなく、それは常に、空間「ABCXD」とか空間「XABCD」とかいう形で、自分自身もそのなかに含まれる空間を、しかし同時にその外側から見ている、ということになるはずなのだ。Xが風景「ABCD」を見るのではなく、Xは、目の前の風景を「ABCXD」として構成する。「その中に私が存在している空間」を、私が見ている、あるいは私が書いて(描いて)いる(これは、私を見ているもう一人の私、というような、メタとベタ、再帰的自己、自意識のような問題系とは異なる問題だ)。
このことは、例えば小説においては、一人称と三人称とに本質的な違いはない、ということを示すだろう。私が語るのは常に、私から見た、私の外にある対象たちの関係「ABCD」ではなく、私自身もその内部に含まれる、関係「ABCXD」でしかありえない。「ABCXD」をX'が見ているという時、このXとX'とは、分離していると同時に、同一でもある。ふたりでひとり、ひとりでふたり。このXとX'との分離-短絡によって、必然的に、メタレベルとオブジェクトレベルとを切り分けることが不可能となるような形で、空間が、論理的な階梯が、歪むのだ。というか、この歪みそれ自身が事前にあるからこそ、人は「何かを語る」ことが可能になる(語らざるを得なくなる?)。「私が語る」あるいは「私が見る」ことそのものが、既にこの分離-歪みを前提としている。この歪みは、なにも、例えば岡田利規の小説のようなアクロバティックな語りによってだけ感じられるものではなく、ごく普通に一人称として読み得る大江健三郎の小説からも、「わたし」の視点から世界を切り取っているようにみえる柴崎友香の小説からも、つよく感じられるように思われる。
(繰り返すが、これは『「私を見ている私」を見ている私』を見ている私、というような、フレームの無限後退、つまりは「自意識の問題」とは別のことだ。)