●吉祥寺の百年で、福永信さんとトークイベント。人前で話しをするのはすごく疲れる。イベントの後、打ち上げみたいな感じで軽く飲んで、終電一本前くらいの電車で帰り、二時半くらいに寝て、目が覚めたら十四日の昼過ぎになっていた。ぼくは、睡眠時間を多くとらないと頭が働かないのだが、眠りは浅くて、夢も多いので、夜中に何度も目覚めて、また寝るという感じで小刻みな睡眠になってしまうので、一度も目覚めずに八時間以上寝られるということは希で、そのくらい疲労していたのだと思う。
●福永さんは、とても巧みに「ぼくがちゃんと喋れる」ように話を組み立ててくれるので、下手をするとぼくの話ばかりになってしまいそうで、ぼくとしては必死に、福永さんに自分の作品について突っ込んで話してもうにはどうすればよいか、ということを常に考えながら話した。
●当初、ぼくが福永さんの作品の「読み」を示して、それに対して福永さんに突っ込んでもらうということも考えていた(『あっぷあっぷ』のある場面を分析した「図」とかも用意していた)のだが、そういう話にはならなかった。というか、話しをしながら、そういう話はもういいんじゃないかと思ったので、そっちには行かなくていいと考えた。そういうことは、書いたり、あるいは一人で聴衆に向かって喋ったりすればよいので、「相手と話す」ということはそういうことではないのだ、ということを、今回の福永さんとのトークと、前回の磯崎さんとのトークを通じて分かったように思う。この年齢になって、ようやく「人と話す」ということがどういうことなのか、ちょっとだけ掴めた。それもどうかと思うけど。
磯崎さんと福永さんとでは、そのやり方は全然ちがうけど、二人ともトークの頭から「攻めて」くる感じで、それに対してたんに「返す」だけだと展開が単調になってしまうので、どう「攻め返す」ことが出来るのか、を探ってゆくという感じ。ただ、戦いを想起させるような比喩だと誤解されるかもしれなくて、これは全然ディベート的、対立的なことではなくて、話全体の展開とか流れのことだ。攻めてくるというのはつまり、最初にペースをつくってくれるということで、話すことが得意ではないぼくとしては、まずその流れに(とまどいつつも)乗せてもらえばいいわけで、とても助かる。ただ、そのままだとインタビューのようになってしまうので、流れに乗りつつ、そのなかから、別の流れへと飛躍する可能性のあるもの、ある響きが別の響きに繋がってゆくような種子となるかもしれないものをみつけ、それを返してみる。そのような応酬によって、結果として、話しているお互いにとっても予想外なところにつながったり、何か新鮮なものがぽろっと出てきたりすれば、それが(ウケを狙うということとは違った意味での)「面白い」ということなのではないか。
●聞いていた人や福永さんがどう思ったかは分からないけど、ぼくとしてはとても面白かった。ただ、「作家としての福永信の核心(無意識)」が語るというなところまで、もうちょっと深く突っ込めたらよかったなあとは思った。