●『ザ・ウォード 監禁病棟』(ジョン・カーペンター)をDVDで。面白かった。けど、この面白さというのは何なのだろうか。ネタ的に言えば、使い古されたというか、どこかで見たことのあるようなものの寄せ集めで、この部分はあの映画みたいだ、というところばかりで、オチもだいたい読めてしまうし、最後のカットがああなるのも事前に分かってしまう。でも、そういうことじゃないんだよな、という面白さ。お約束をお約束として楽しむというのとも違う。むしろそういうものから最も遠くにある。先が読めてしまうとか予想がつかないとか、斬新だとか手垢が付いたとか、そんなこととは関係のない面白さがある。そこに何か、躍動するものがあるかないかということなのだと思う。動くものが掴めているのか、律動が刻まれているのか、というようなこと。生命線はそこにある。そのためには、設定や物語は出来るだけシンプルであった方がいい。
ただ、いまどきではあまりにシンプルだと商品にならないから、今風のサイコ的一ひねりを入れておく、ということなのだと思う。カーペンターの映画にそんな一ひねりはいらないじゃんとも思うけど、それはカーペンターのファンだからそう思うのであって、商品としてはカーペンターのファンじゃない人にも売れないと困るということなのだろう。実際、カーペンターが十年も映画を撮れなかったという事実に、「シンプルな面白さ」の困難がみてとれる(しかも前作の『ゴースト・オブ・マース』はすごい傑作だったのに)。
閉鎖された場があり、そこから必死に脱出しようとする女がいる。閉鎖状況を管理する者たちがいて、女と同様に監禁されている四人の女たちがいる。さらにそこには何か不条理な霊の力が作用しているらしい。それらの者たちと女との関係の変化があり、その中で何度も脱出が試みられる。監禁を維持しようとする力、不条理に働く「殺す」という力、なんとしても脱出するという不屈の力、それらの力が、ある特定の空間において絡み合い、そこに、動き、躍動するものが生まれる。それがダイナミックかつ丁寧に拾われる。その躍動は強迫的なものによって生まれるもので、歓喜に満ちたものとは言えないが、その強迫性のリアリティは、「オチ」による説明から生まれるのではなく、個々の描写に含まれる躍動による。