●『クロユリ団地』(中田秀夫)をDVDで。これはぼくには駄目だった。ぼくはもともと中田秀夫監督の演出はあまり趣味ではないし、そのことはもう何本も中田作品を観ているので観る前からある程度は分かっている。だから、そこは大して問題ではない。どうしてここはこんな撮り方をするのだろうとか、どうして俳優にこんな演技をさせるのだろう(この顔はどうなのか)とか、どうしてここでこんな間をつくるのだろうとか、そもそもどうしてこの映画がシネスコサイズなのかとか、そういうしっくりこない感は随所にあって、でもそれは趣味の問題だと言えるし、逆に、自分だったらここはどうするだろうとか、文句は言うけどこれよりうまくやる方法はあるのか、とか、考えを刺激されながら観られるので、それを楽しめるとも言える。実際、前半はけっこう楽しんで観ていた。
そうではなく、ぼくが納得できなかったのは後半の展開だった。ここからはネタバレになってしまうのだけど、この映画は二段オチみたいになっていて、作品の中盤で一度「オチ」がついて、後半はそのオチの後の変質した世界の話という展開になる(『ドリームハウス』みたい、というとかなりネタバレになってしまう)。前半、複数の方向へとのびていた線が、後半は登場人物たちにトラウマがひたすら襲いかかってくるだけという一本調子の展開になって、そして結局主人公たちがトラウマに破れて終わりになる。つまり、なんというか、後半は「力押し」で、回帰するトラウマがひたすら強迫的にガンガン迫ってきてぐわーっと泥臭く盛り上げる感じになっている。これは確かに怖いし、日本のホラーではこのようなひたすらな力押しみたいなのはあまりないのでそれが狙いなのかもしれないとは思う。でも、この怖さはなんか違うよなあと思ってしまう。
あまり上品とは言えないよくない例え方かもしれないけど、恋愛依存の女性がDV男の暴力に恐怖を感じながらも、それでもやっぱりその男性への依存から抜けられないで固着してしまうみたいな、そういう感じの「恐怖」であり、「嫌な感じ」のように感じられた。しかもそこからの脱出の「契機」のようなものさえまったく描かれないまま、そこに引きずり込まれて終わる。そういうものは人間の心理のなかにおそらくあって、だからそういうものを表現するのが悪いとは言わないのだけど、それはぼくがホラー映画に求めているものとは違う。お前の求めているものと違うだけだろ、と言われればその通りなのだけど。
当然、最後に何かしらもう一ひねりあるのだろうと思っていたら、何もないまま終わってしまったので、ぽかんとしてしまった。この終わり方は主人公たちに対して無責任なのではないかと思った。
救いのないホラーなどいくらでもあるし、むしろ救いのない終わり方はホラーの定型ですらあると思うのだけど、それと、この映画の救いのなさは根本的に違うように思う。多くのホラーにおける救いのなさは、それによって世界を開いたままにしておく(フィクションと現実を地続きにしておく)ような効果があると思うのだけど、この映画の救いのなさは、(心理的な次元で)泥沼とかアリ地獄のようなものに引きずり込んだ上で蓋をしてしまうような感じがした。例えば、貞子の怖さ、その絶対的な強さは、決して心理の問題には還元されず、世界そのものへの根源的な恐怖と繋がっているから、その恐怖は基本的に解決不能なわけだけど、この映画の怖さ(呪い)はあくまでも心理の範疇にあるものだから、その恐怖からの脱出の糸口さえ示されないまま映画が終わってしまうと、人を病のなかに閉じ込めて固着させることになってしまうと思う。心理を主題にするから駄目ということではなくて、心理を扱うのならばこの終わり方はないと思った。
観た後に、これは違うだろ、これには納得できない、という気持ちが強く残った。