●近所の農家の庭先にあった(小説にも書きこんだ)栗の木がなくなっていた。二、三日に一度は通る道で、昨日は確かにあったはず。しばらくの間、それを現実として受け入れられなかった。
●『境界線上のホライゾン』というアニメをDVDで5話まで観たのだが、これは一体何なのだろうかという衝撃。「凄い」と書いて「ひどい」と振り仮名をふりたくなる感じ。唖然としてあきれるしかないのだが、決して無視することは出来ない達成が感じられる。審美性や趣味の次元で強く引っ掛かり、これは受け入れ難いという信号が点滅するのだが、同時に、ここでは何か凄いことが起こっているに違いないようにも思われるのだ。こういう感じでガンガン「進化」してゆくとしたら、一体、アニメ的なイメージは人をどんな場所に連れていってしまうのか。
ごく単純に、イメージの編集(合成、圧縮、重ね描き)の密度と突飛さが半端ではない。非常に複雑な世界像、過剰に多層化された風景、高度に洗練されたメカニックのデザインと動き、あきれるほど類型化されたキャラクターたち(しかしキャラクターの視覚的なイメージは様々なオタク的お約束の洗練と高密度の合成、圧縮、重ね描きで出来ている)。そして、かなり複雑な世界設定がなされている割に、物語の展開そのものは「少年マンガ」的な単純さ支配されているように(ここまでの部分では)思える(「大きい話」と「小さい話」の繋げ方とかもすごい無茶な感じ)。
要するに滅茶苦茶だとも言えるのだが、これだけ滅茶苦茶に、様々な要素を圧縮して「一つの基底平面」に交錯させ得る場(媒介)は、ぼくが知っている限りアニメ以外にありえない(ゲームのことをまったく知らないけど、ゲームも近い感じなのかもしれない、この話を「文字」で読もうとはまったく思わないが、原作はラノベで、原作者はゲーム作家でもあるらしい)。全体を制御するもの(審美性や作家性のような)が欠如したまま、それぞれの要素が個別に、勝手な方向に、どんどん進化してしまっている様を観ているような感じ。SF的な世界設定はそれ自体で勝手にどんどん複雑化してゆき、キャラクターもまたそれ自体で、特殊な欲望の形態に奉仕する形でどんどん進化してゆく(しかしこれは、進化と退行がほとんど同じ意味になるような進化だと思う)。世界像の複雑さ、キャラクターの特殊純粋化(ガラパゴス化)、メカの洗練とメタモルフォーゼ、物語展開の単純さ等がそれぞれかみ合わないまま重ねあわされ、圧縮されて、無茶苦茶なんだけど(審美的には受け入れ難いんだけど)、見たことのないようなすごい密度のイメージ合成が実現されている。
一方で統合できないほどの複雑さがある反面、キャラクターや物語の単純化も同時に進行している。物語の単純化はアニメを強く規定している「対戦」という快楽原則によって要請されるのだとも思われるが、それだけでなく、キャラクターの特殊純粋化と合わせて、作品に「泣ける」「笑える」「萌える」などの感情のスイッチとしての「効果」が求められているからでもあろう。つまり作品が、一方で(物語へと収斂されないほど)圧縮された複雑なイメージと情報の錯綜体と化し、しかし他方で、(物語としての厚みをもたない)手軽に効果が得られるサプリメントと化しているということではないか。この両者が同時進行している感じに、人間の物語への感覚の根本的な変質さえも感じられて、恐怖と魅了という相反する感情が惹起させられる。
実際、普段アニメを見慣れてない人が観たら、画面で何が起こっているのかまったくついてゆけないのではないかと思う。無茶苦茶だと感じるのは、それがこれまで人間が獲得してきた感覚やイメージ、物語などを形作る(とりあえずそれを「一つの統合された何か」と感じることが出来るようにする)「合成方法」では処理しきれないということだと思う。それはつまり、これを普通に楽しむことが出来るならば、これまでの人間の持っていた感覚や物語の「かたち」が根本的に書き換わってしまっているということではないか。それに対する恐怖と警戒心がある一方、一体それはとのような感触なのかという好奇心があることも否定し難い。
●例えば、『シュタインズゲート』のダルも、『境界線上のホライゾン』のトーリも、これまでのアニメ等によって繰り返し描かれてきた類型的なキャラクターの蓄積の上で生まれた、類型の重ね描きとしてあることに変わりはないだろう。しかし、ダルにおいては、その類型的諸要素はダル独自の、ある立体的な構造をつくるように組み合わされている。その構造がダルというキャラクーの深さをつくり、独自性となり、一人の人物としての統合を実現している。対して、トーリにおいては、様々な類型要素がただ並立的に並べられていて、トーリの独自性として立体化されているようには感じられない。トーリはキャラ要素の集合であり「一人のキャラ」としての凝集性がとても弱い。
例えば、『ゼーガペイン』を形作る様々な要素の一つ一つは、どれもどこかで見たことのあるようなものだとしても、それらの諸要素が、『ゼーガペイン』という作品に独自な形で結び付けられ、構造化されている。そのような構造体として、『ゼーガペイン』はすぐれた作品だと言える。しかし『境界線上の…』では、様々なイメージや要素は、構造体をつくるというより、バラバラなままで、ただ、凝縮され、折りたたまれ、重ねあわされて、ぎっしりと詰め込まれているという感じだ。『境界線上の…』は、作品としての統合性がとても弱い。
逆に言えば、そこをある程度放棄しているからこそ、こんなに過剰な詰め込みが、こんなに過剰な密度と、こんなに複雑で多層的な重ね合わせ(折り重ね)が可能な場となったのだ、とも言える。それはもしかすると、「作品」よりもより過激で先進的な何かなのかもしれない。しかしそこには、そこに近寄ってはいけないと感じさせるような、あるヤバイ感触があることも否定できない。たとえて言うなら、もしある日とつぜん、すべての人が肉眼で顕微鏡並みの解像度で物が見えてしまうような世界になったとすると、それまで我々の日常を構成していたさまざまな距離感や習慣や認識、行動の形式が、ことごとく通用しなくなり、人間的な立体性(遠近法)をもった世界は崩壊してしまう、というような事に近い感じ。
ぼくはこの作品を、普通のDVDと古いブラウン管のテレビで観ているのだが、もしブルーレイと高画質の大画面テレビで観たらどうなのだろうかとも思う。
●ぼくはちょっと大げさに書きすぎているかもしれない。だいたいまだ5話までしか観てないし。だけど、そういうヤバイ感じがこの作品には含まれているように思われるのだ。これが、半端なく「力の入った作品」であることは一見して明らかなのだが、そのような力作が、徹底してオタクの方だけを向いてつくられる(非オタクをはじめから排除するような要素に満ちている)という事への単純な驚きもある。