●積雪量がシャレにならない。
●『復讐 運命の訪問者』(黒沢清)をDVDで。高橋洋が脚本ということで、久々に観てみたのだが、これにはちょっと言葉が出ないくらいに圧倒された。97年の作品。この時期の黒沢清はあらゆる意味でキレまくっていた。すべてがすごい、やっていることのいちいちが全部冴えているっていう感じ。
高橋洋的な主題にひきつけて考えるならば、ここには二人の「怪物」の交錯と対照がある。(貞子のように)あらかじめ怪物であり、怪物としてしかあり得ない六平直政と、運命によって、徐々に「怪物」へと変化してゆく(変化させられる)哀川翔。六平は、誰もそれに触れてはならないような邪悪な力の結晶であり、哀川は、それに触れてしまう(というより「それ」によって触れられてしまう)ことで、別の意味での「怪物」への変質を余儀なくされる。六平的な、怪物の「存在」が恐怖であり、哀川的な、怪物への存在の「変質」が恐怖であろう。
●『パラジット』(ミシェル・セール)を読みはじめた。第一部を読んだ。ここまでではまだ準-客体の話は出てこない。パラジットという概念が、こっちからみられ、逆からみられ、ひっくり返され、みたいにして進んでゆく。図としては描けない地を、図から図へのずれ込みによって描き出そうとするような書き方であるように思う。
人は自然に対して寄生者の位置にあって、自然から与えられるばかりで何も返そうとしない。このような「自然と人」との関係が、「人と人」との関係にも反映され、両者ともが寄食者としての「人」の位置につこうとすることで《競合的敵対関係が生ずる》と書かれているところは、今のぼくの関心とも重なった。「人間は人間に対してオオカミである」となってしまう理由は、「オオカミにとってはシラミとは人間のことである」からだ、と。このような比喩の転換の感じがセールの書き方みたいだ。
《牝牛は判定を下す。彼女はいう、わたしは人間にわたしの乳とわたしの子供たちをあたえるが、人間は決して死だけしか返してくれないと。牡牛が、第三者として、新たに判定を下す。彼はいう。わたしは多年の労働をあたえ、なぐられるという褒美をもらうだけで、そして神々の祭壇の上で犠牲に供されて一生を終えるのだ、と。したがってすべての者が人間にあたえ、人間は決して何も返さないのである。》
《歴史は人間が普遍的[全称的]寄生生物[食客]であることを隠しており、人間のまわりではすべてが宿主的空間であるということを隠している。動物も植物もつねに、もてなすという意味で人間の招待主であり、人間はつねに彼らのおしかけ招待客なのである。人間はつねに取り、決して返すことはない。人間は、交換と贈与の論理を、それが自然全体にかかわるものであるときには、自分に有利なようにねじ曲げる。彼の同類たちにかかわるものであるときにもそうしつづけて、彼は同じように人間に対して寄生者であろうとするらしい。彼の同類の方もまた寄生者であろうとする。そこから競合的敵対関係が生ずる。そこから、人間が動物だというこの突然の、電撃のような知覚が生ずるのであり、そこから寓話の動物が生まれるのである。もしわたしの同類たちが、牛や仔牛や豚や一孵のヒナであったならば、私は、私が自然との間にもっている関係を、安んじて彼らとの間に保ってゆくことができるであろう。私の同時代やその子孫やその祖先たちの、これは心安まる夢である。いつでも自分が取り上げ、決して返さないこと、回帰のない論理のなかで有利な地位を占めること、オオカミにとってはシラミとは人間のことである。隠喩は位置をずらし、変換する。》
●ぼくが昨日書いた話も、要するに、人と人との関係において、自動的に作動してしまう鏡像的な競争関係の力学をどうキャンセルするのかという話、それだけでかなり見える風景がかわるはずだという話なのだった。精神分析はそれを、父-去勢-象徴-法という第三項によって外側から抑制しようとする。しかしその第三項を支える根拠はどこにも見つからないということになってしまう(大他者の大他者は存在しない、対象aはみせかけである)。セールもまた、招待主、寄食者、物音という三つの項を挙げるが、この項は固定せず、互いの位置を取り換えながら、くるくる廻る(三つの項を示す図は三角形△ではなくイプシロンΥのような形になっている)。「人間は人間に対してオオカミである」という比喩が、「オオカミにとってはシラミとは人間のことである」という風に転換してゆくように、三項が廻る。だからもう一つ違うのは、この項の位置を占めるものが「人間」とは限らないという点なのだろう。