●「風の旅人」の最新号(20号「ALL REFLECTION」http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/index.html)が届いた。ぼくの書いた「現代生活のなかの絵画・記憶と動き、色彩と線描」というテキストが載っています。マティスの言葉を引用しつつ、絵画における色彩は、目を瞑ることと関係があり、線描は。身体を動かすことと関係がある、というようなことを書いています。興味のある方は手に取ってみてください。
●この号には桑原甲子雄の写真も載っている。ぼくは、桑原氏のある種の写真を観るといつも「突き放された」ような感覚に襲われる。自明だと思っている、今、自分が居る時間や場所が相対化されるというか、いま・ここという時空と「私の意識」の結びつきがとても危ういものと感じられ、自分が立っている足場が崩されるような感覚が生じるのだ。
「風の旅人」に載っている写真からだけではそれ程顕著にはみられないけど、桑原氏の写真の多くは人物を背後がら捉えている。つまり、撮影された人が、今、自分が撮影されている(見られている)という意識を持たず、他者の視線を意識することによる制御が充分になされていない姿(身体)が捉えられていることが多い。それはつまりほとんど「盗撮」なわけだけど、人物だけではなく、桑原氏の捉える風景もまた、「人によって見られる」ことを意識していない部分こそが捉えられているように見える。比喩的な言い方になるが、桑原氏は、街に入り込み、そのなかの風俗的な細部を撮影するのだが、その時、その同時代の風俗や空気に同調しているのではなくて、そこからややズレた場所にいて、その「同時代の空気」がふと気を緩めて、時代という制御から外れてしまったような姿を撮影していたのではないだろうか。桑原氏の写真からはノスタルジックな雰囲気がほとんど感じられないのは、モノや人が、時代の空気による同調から溢れ落ちてしまうところこそが捉えられているからなのだと思う。
空気という言葉には様々な意味がこめられる。「場の空気を読め」みたいに、その場の雰囲気やら、様々な力関係が織りなす微妙な機微みたいなものが「空気」と呼ばれたりする。つまりそのような「空気」こそが、現在とか同時代とかいう共通の地盤を、つまり、フィクションとして人々に共有される「現在」を形作る。しかし桑原氏の写真は、そのような意味での「時代の(場の)空気」を欠いている。だが、そのことによって、もっと即物的な意味での「空気」がそこには写し込まれているように思う。(だから桑原氏の写真は、「ストリート」とかいう言葉がコノテーションするものとは最も遠いところにあると思う。)「風の旅人」に載っている、上野駅前や渋谷駅前の写真が撮っているものは、風俗でも時代でもなく、そのような、人間がフィクションとしてつくりだして、とりあえず共通の地盤としているようなもの(現代)とは別種の、途方も無い時間と空間のひろがりのようなもので、そこには人物が多数写ってはいても「人間」はいない。そのような視線は、今生きている自分が、その基盤としているような「現代」もまた、人間たちによって共有された決めごとによるフィクションでしかなく、その外側に、途方も無い広がりとしての時間や空間があるのだということを突きつけてくる。私が生まれる前にも世界はあり、私が死んだあとにも世界はある、という言い方があるが、そのような感覚が実感されたとき(すくなくともその一瞬だけは)、既に「私」は解体されてしまっている。「突き放された」ような感じとは、多分そのようなことなのだと思う。