07/12/05

●『芸術の神様が降りてくる瞬間』(茂木健一郎)に載っている荒川修作の話が凄い。ぼくの知っている限りのアラカワの対談やインタビューのなかでは、もっとも分りやすく、素直に、その(あまりにも)広大なビジョンが語られているように思う。本屋で買って、そのすぐ近くのマクドナルドで、喫煙席しか空いてなかったのでもうもうと立ちこめる煙の中で読み始めたのだけど、興奮して自分の鼻息が粗くなってくるのを感じた。これは対談というよりもひたすらアラカワが語っていて、茂木氏はただ間の手をいれる程度の発言しかしていない。ぼくは茂木健一郎の本をほとんど読んでないけど、この人には独自の才能があるように感じられた。自分を、頭の良い、シャープな存在に見せようというような自意識がかぎりなく希薄で、自分を消して、とにかく相手にきもちよく語ってもらおうということに徹することが出来る人、というのか。とにかく、アラカワからこれだけの話を引き出せるということは、それだけで充分に凄い。
ここでは、アラカワの言う「位相的なもの」が、とてもシンプルに語られている。奈義の竜安寺について、《いや、二つあるの。なんでも二つあるんですよ。ないのは、あなただけなの。》と言っている。あらゆるものがペアで存在する場のなかに(たった一人しかいない)私が入り込むと、私はそこで自身の分身をつくりだす。この分身の発生が、荒川のあらゆる活動の基本にあるように思われる。(デュシャンとアラカワとの共通点は、その作品、というより「装置」が、分身をつくりだすものだという点にあるのではないか。)そして、アラカワが「位相的な《生命》」と言い、《生命を外につくる》と言っているのは、おそらく、ここにあるこの身体、この私ではなく、その「分身」の方をこそ「私」だと捉えるということではないだろうか。それが《位相的な《生命》が数万も出現しているのだ》と感じるための、最も基本的なレッスンとなる。この感覚は、例えば『肝心の子供』(磯崎憲一郎)で、全てのカエルを「このカエル」と捉えるラーフラではなく、このカブトムシに冬を越えさせるより、このカブトムシから次のカブトムシをつくりだしてそれへと引き継がせることに関心をもつティッサ・メッテイヤに近い。あるいは、ボルヘスで言えば、全ての「これ」を記憶し、その充実した記憶と共に死んでゆく「記憶の人、フネス」ではなく、夢のなかで人間をつくり出して現実に出現させてしまおうとする「円環の廃墟」に近い。あるいは、平倉圭ゴダール的分身に見出しているものに近いものがアラカワにもあるが、アラカワはゴダールとは違って、物語やイメージを媒介することなく、ある装置をつかって、それを直接体験させ(出現させ)ようとする。あるいは、その出現の現場そのものが問題となる。(アラカワの分身は、イメージとして「似ている」ことにはあまり関係がない。)私の分身が偏在する場としての世界で、この私、この身体への固着的執着がかぎりなく後退するすることが、アラカワにとっての「死なない」ことの基本的なイメージではないか。
●以下、気になった部分をいくつか引用。
《茂木/仮想の「自分」が実際にいると ?
荒川/環境と共につくりあげている、いない私を。いない私って何だろう?》
《そう、まさに分身だね。そうすると、いったい分身はどれくらいあるかっていうこと、そんな簡単なもので、二つも三つもできるんなら、そういうものがなくても、私が毎日呼吸して歩いているときには、とてつもないことをやっているんだっていうことがわかってくる。そうしたら、私たちはそれを調べる科学が欲しいんだよ。そのために、今生きている地球上の全人間を使いたいの。》(「今生きている地球上の全人間を使いたいの」ってさらっと言うのが凄過ぎる。)
《解釈しながら、その手続きを必ず構築していかなきゃいけないの。なぜなら、解釈したり鑑賞したりしていっても、何かがわかったとか、知ったっていうだけじゃそんなものしょうがないだろう? だから、手続きを通してそれと同じものをつくっていくんだよ。それで、これはチョウチョになっちゃいましたっていったときにね、じつは、これは菜の花になりましたっていったら、どうなる? 途中までは同じもので、でもちょっとこの部分を変えるだけで、菜の花になったり、チョウチョになっちゃったりするの。そうしたらそれで初めて、ああ、チョウチョが菜の花を欲しがるのがわかるっていうことになる。》
《茂木/ああいうふうに人間がなればいいんだ。
荒川/そう。「人間がなれば」じゃなくて、人間はああなの。》
《私が変な夢を見てパッと飛び起きて、汗をかいたとするでしょう。でも、それでまた黙っちゃうんだ。どうしてそんなものを、そのようなときに見たかっていう科学がないの。だからすべてね、最も素晴らしい体験、経験をしたのに、それ自身に対してそれを知るための科学も芸術も、何もないわけ。だからみんな物語にしちゃう。》(素晴らしい体験の「それ自身に対してそれを知るための」科学や芸術というのがつまり、「解釈しながら手続きを構築する」っていうことのなだろう。)
《そう。その「忘れ物をしてきたように感じる場所」こそ、もう一人の分身の私だろうね。しかも共同体の。で、感じるだけじゃないんだよ。「感じる」ってことが、なんでできてるかっていうことを、君たちが確実に科学してほしいんだよ。それをだれもしてくれないから、みんな、「今日はこう感じたな」で忘れちゃうんだよ。感じるっていうのは、ものすごい物質があるんですよ。》(「「感じる」ってことが、なんでできてるかっていうこと」をきちんと知ろうとしないから、「今日はこう感じたな」で忘れてしまう、という指摘は凄く重要なものではないか。あと、アラカワにとって分身とは、イメージとして「似ている」ものではなく、それに対し「懐かしさ(忘れものをしてきたような感じ)」を感じるもののことなのだろう。この「懐かしさ」の質には独自なものがあり、いわゆるノスタルジーのような、時間を経たものから感じられる、物質的なものの厚みとはまったく別の事柄なのだが。)
《それでね、たくあんをすっと中に入れるんじゃなくて、いっぺんご飯をね、歩いていって廊下に一つ置いてみるんだよ。お腹が空いていてもだよ。本当に廊下が食べ始めるっていうようなときに、パッと食べてみろよ。うまいから(笑)。そう思わないかい? 一度やってみてよ。今日からでもいいから。それか便所へ持っていって、ポッと便器に入れてくるんだよ。まずこれを食べとけって。それからだよ、これを食べるのは。》