07/12/06

ニーナ・シモンの声を聞くと、どうしても『インランド・エンパイア』の記憶と結びついてしまう。別に映画で使われていた「SINNERMAN」じゃなく、全然違う感じの曲でも、その声がある特定の表情をみせた瞬間、その声の表情が『インランド・エンパイア』の印象と一体となって、切り離せなくなってしまうのだ。それは具体的に映画のどの場面の記憶というのではなく、暗くてザラザラした、粘膜にヤスリの表面が接しているような感触なのだが。ニーナ・シモンの声(のうちのある特定の表情)が、『インランド・エンパイア』という映画の要素の一部として組み込まれ、呑み込まれてしまったかのようだ。映画とは、何て暴力的で専制君主的なものなのかと感じる。
でもまあ、全ての映画がそのような強い重力を発生させるわけではない。3日に観てから、『ジャッキー・ブラウン』のサントラをなんとなく聞いているのだけど、映画の冒頭で使われ、映画全体の雰囲気を華々しく決定づけている「110番街交差点」(ボビー・ウーマック)は、それ自体としてタランティーノの映画全体よりもずっと強く存在していて、むしろタランティーノの映画の方がこの曲の力に寄りかかり、もたれかかっている。映画と音楽との関係は、ほとんどの場合はそういうものだろうと思う。(映画の輪郭よりも音楽の輪郭の方が強い。そもそも、映画は雑多なものの集まりなので、それ自体で「強い輪郭」をもたないことによって映画なのだから、音楽によって、その輪郭が代替的に示される感じがある。)「ロコモーション」でさえ、リンチのためにつくられたんじゃないかと感じられてしまう『インランド・エンパイア』や、ベートーベンでさえ、ゴダールのために作曲したんじゃないかと感じられてしまう『カルメンという名の女』のような、特別な例外を除いては。