●渋谷の東芝エンタテイメント試写室で、ジム・ジャームッシュ『ブロークン・フラワーズ』。(凄く盛況で、あと5分着くのが遅かったら観られなかった。)ジム・ジャームッシュの映画は、ひとつひとつのシーンがとても素晴らしいし、そこに登場する人物の描写がとても素晴らしい。しかし、シーンはいくつか重ねられると、必然的に(不可避的に)一つの流れとして(あるいは「構造」として)の「物語」を形成する。彼の映画において「物語」は、いつも「でもあなた、そんな物語、本当は信用してないんでしょ」というような距離において語られる。それが彼の映画のクールなところであり、ポストモダンな風味のもとでもあろう。でもそれは同時に、「では何故(何によって)あなたは、(そんな信用していない、あなたにとって大して重要とは思えない「物語」を)わざわざ「語る」のか」という疑問がいつも一緒についてくる。この問題はジム・ジャームッシュの初期作品からずっと一貫してありつづけ、彼はこの問題の処理にいつも悩まされつづけているように、一人の観客として思う。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の素晴らしさは、彼が、自らの、シーンを構成し、登場人物を(その関係を)描写する能力以外のなにものもを頼りに(前提に)せず、ただその一点のみによって一本の映画を完成させたところにあると思う。しかし彼は、その後も自らの資質(関心)だけによって勝負しつづけるには、映画や文学に詳し過ぎた。つまり、シーンを重ねることで不可避的に出来上がってしまう「物語」の流れを、シーンを重ねることで「結果として出来たもの」(という制御しがたいもの)としてではなく、シーンの重なりを外側から規定するものとして「先取り」して制御するためのものとして使用し、その根拠を別の(作品の外の)参照物に求めることになる。作品に、複雑な時制の構造を持ち込んだり、あるいは、ジャンルとしての西部劇を導入したりすることで、たんなるシーンの連続ではない、全体性=物語を先取り的に確保しようとする。しかしそのような物語はいつも、自らの外部に参照点を持つものでしかなく、ジム・ジャームッシュ自身に(内的なものであろうと、外的なのもであろうと)「作品をつくること」を促している力動そのものとは切り離されたものでしかないことによって、作品の力を弱くする。(例えば、作品中に似たような細部が反復される時、それを意図的に行っている、つまり、それが意識的に制御出来る次元で行われているのか、それとも、同一の細部がまるで「運命」のように回帰してしまうのか、によって、その作中の「反復」の深さや強さはまるで違うと思う。意図的に行いつつも、自分では制御出来ないくらい複雑にそれを仕掛けることで、意識出来ないところにまで届くように働きかける、という手もあるけど。)ぼくが思うに、彼の作品を動かしている力は、あくまで、そのシーンを支配している「その空間」への関心であり、そして、その場にいる「人物たち(の関係、あるいは関係のなさ)」への(愛着に満ちた)関心であるように感じられる。(彼が多くの場合、「友人」と一緒に仕事をすることには、重要な意味があると思う。)ジム・ジャームッシュの弱さは、自らの関心を中心に作品を組み立てる前に、絶妙のバランス感覚によって、気の効いた、適度に面白い物語の枠組みを(先取りして)作ることの出来てしまう頭の良さ(センスの良さ)にあるように思う。しかし勿論、このような頭の良さ(センスやバランスの良さ)によって、個々のシーンの素晴らしさが成立しているわけなのだが。(つづく)