●ある一つの音が最初にあって、次に別の音が鳴る。そこに、ある点から次の点へ移る動きが生じ、その軌跡は線となって形態を予測させ、同時に二つの音の響きはある色彩を生む。この時、二つの音の連なりによって感じていた感覚は、次に三つめの音が付け加えられることによって変容する。動きは複雑になり、一度予測された形態は修正され、べつの色彩があらわれる。そしてそれは四つめの音でさらに変容する。しかし人は、本当にこのようにメロディを聴くだろうか。あるいは、メロディを書く人は、このように、一音一音付け足すように書くだろうか。おそらくそうではなくて、メロディを聴く人はつねに一塊のものとしてそれを知覚するし、書く人は一塊のものとしてそれを発想するのではないか。しかし、では、はじめて聴くメロディを、その一塊となる単位の途中までしか聴いていない時、それを聴く人は何を聴き取っているのか。何も聞き取らず、ある解決(メロディの終止)がくるまで判断を保留し、感覚は空白のままなのだろうか。おそらくそうではなく、メロディが一塊のものとして解決するより手前では、冒頭に書いたようにして聴いているのではないか。だが、メロディが解決した途端、それは形として固定され、(常に/既に)一塊のものとなるのではないか。
●おそらく、ある主題としてのメロディがあって、それが様々に展開されるのでは「遅い」のだと思う。主題が主題としての形を得ないままに、主題も展開も区別なく、ただ、だらだら続く音の連なりがあること。解決を与える決定的なものが常に一つ足りないままであること。しかし、たんに「形を避けること」が自己目的化しまったら意味がない。それを聴くのはただ拷問に近いものになるだけだろう。形という解決を避けるのは、(常に/既に一塊のものとしてあってしまうような「形」による)「解決」以前の「探り」の姿勢のままで、その感覚の動きを捉えるためなのだから。だからその音の連なりは、形として固定される以前の形の予感がなければならないし、しかしそれが形になり切ってしまうことから常にこぼれ落ちるような動きの感覚がなければならないだろう。そしてそのような「動き」が全体としてある固有の感触を持たなければ「作品」とは言えないだろう。
●音楽について全く無知なぼくが音楽を比喩にして書くことはとても危険なことで、自分で書いていてもどこか信用がおけない感じがあることは確かなのだけど、ぼくが自分の作品で「線をひく」時、いつも考えているのはこのようなことだ。ある一本の線をひこうとする時、筆の先が画面に触れようとするその時、その線がどこで途切れるか(どこまでつづくか)、どのような軌跡を描くかを、頭のなかでイメージしていてはいけない。その方向、筆圧、速度、勢い、等々は、まさに筆が画面に触れて動いている(と同時にぼくは画面全体を感じている)その瞬間、瞬間に刻々と判断され、軌道修正され、その結果が軌跡として線となる。だからといって、事前に何もイメージしないわけではない。イメージのない線は画面の空間を壊すだけだろう。線がひかれる前に、出来るだけ密度の濃いイメージが持たれる必要がある。しかしそのイメージは具体的(視覚的)であってはダメなのだ。それは、リズムや呼吸のイメージであったり、今の画面の状態を動かしたい方向性のイメージだったり、身体の動きのイメージだったり、あるいは質感や触感のイメージだったりする。(形にならないイメージを、形にならないままで充実させ、強いものにさせてゆくことはとても重要だ。)一挙にその全体像を形として捉えるような視覚的イメージは、これから起ころうとする出来事の可能性(可変性)を縮減し、線を(線によって生成される空間を)単純化させてしまう。それを実際にひく前から「見えて」しまっているような線など、大して面白いものであるはずがない。(勿論、いつもいつも完璧にこれが出来るわけではなく、往々にして妥協して、事前に「見えている」ような線を操作して画面を納めようとしてしまったりするのだけど。)
●それはおそらく、実際にひかれてしまった線が、実際にはひかれなかった別の線でもあり得たという可能性を消し切ってはいない状態にする、ということでもあろうか。