●六本木super deluxeで神村恵カンパニー『配置と森』。去年、横浜のSTスポットで観た初演があまりに圧倒的だったので、それに比べるとちょっともやっとした感じ。「もやっとした感じ」というのは、いいとか悪いとかではなく、掴みづらいということなのだが。それは、「この人たち、こんなことつづけたらきっと死んじゃうよ」みたいな、単純にフィジカルな次元での「すげえ」っていう感じが後退したことと、去年観た印象では、細部のひとつひとつがもっとくっきりと粒だって見えていたのが、今回のは、むしろそのクリアーな粒だちを意図的に外している感じに見えた、ということなのだろうか。
空間のなかで配置される人。あるいは、配置される身振りや動き。しかしその人は同時に、自ら能動的に動き、物や人や自分自身を空間のなかに再配置しようとする。配置される者が配置し、配置する者が配置される。そこに多中心的な、身体、身振り、物の、配置と再配置の相互作用と折り重なりがあらわれる。
その複雑化された相互作用の重なる空間のなかで、例えば、ある一人が別の一人を移動させようとする、または倒そうとする。その人は倒されないように踏ん張る、または倒される。倒す人が倒される人を倒す。ここには物理的な意味での身体の相互作用があり、接触がある。しかし、誰かが倒されたのとほぼ同時に、それと同期するように別の場所で別の誰かが、倒された人と同じような身振りで自ら倒れる。この時、この二人の「倒れる」の間には物理的な意味での関係性はない。しかし、それを観ている観客は、この二つの動きに関連性を読み取り、動きが空間をこえて伝播したかのように感じる。つまり、一人が倒れたから、もう一人が倒れた、と感じる。
倒そうとする人と倒される人という物理的な接触、作用のフレームがあり、倒れるという身振りが、ある人から別の人へ、ある場所から別の場所へと伝播するという認識的次元のフレームがある。ここで、異なる二つの次元(フレーム)が発生し、ある一つのフレームから別のフレームへの移行が起こり、二つのフレームの間を何かが駆け抜けて行く。
配置する人が配置され、配置される人が配置する、そして、自ら動く人が動かされ、動かされる人が自ら動く、というような、中心のない多焦点的な相互作用の空間のなかで、その都度、いくつものフレームがあらわれては消え、同時並立し、また、あるフレームから別のフレームへの移行が起こる。人や物が動くだけでなく、その関連性の変化、あるいは関係の複数性によって、それを捉えるためのフレームそのものが動いてゆく。
つまり、フレームが先にあって、そこに身振りなり身体なりが配置されるということと、ある身体と別の身体、ある身振りと別の身振りとの関係性、そしてその変化が、その都度あたらにフレームを立ち上げ、あるいは解体するということとが、両方ある。
●帰りに新宿で降りて、ジュンク堂紀伊国屋で、自分の本が並んでいるのをはじめて見た。