●確かネットの動画で観たと思うのだけど、川上量生が言っていたことで(記憶で書くので正確ではないかもしれないけど)、「パソコン」と「ブログ」の組み合わせと、「スマホ」と「SNS」の組み合わせで何が違うのかと言えば、前者が「オタクのオモチャ」であるのに対して、後者は「リア充のコミュニケーションツール」であるという点だ、と。で、いまやネットの主流は完全に後者に移行している、と。ネットはリアルのためのツールであって、ネットに棲みつくオタクの時代は終わった、と。SNSがどうしても使えないぼくは、この言葉に何かすごく納得させられてしまった。
(だからオタクの巻き返しとして、ネットの世界をそのままリアル化するような「ニコニコ超会議」を赤字覚悟でやらなければならなかった、と川上量生は言っていた。)
最近は(特に3・11以降)アートもすっかり「リア充」化しているので、そこにぼくの居場所はないなあと思うことも多い。
ぼくの興味はコンテンツにこそあって、コンテンツ(作品)とは、ネットワーク(関係)の凝集であり、ネットワークの相転移(として生じる結節点)であるはずのものだ。そして、相転移のためには、「開く」のではなくいったん「閉じる」必要がある。
ぼくにとってネットが重要なのは、その「閉じた」ものを「だだ漏れ」させる装置だからではないかと思いついた。ぼくはひきこもって孤独に日記を書いているだけなのだが、それがいつのまにか外に「だだ漏れ」になっていた、というようなことが起る。ブログとはそういうものだ、と。そういえばぼくの最初の本のタイトルは『世界へと滲み出す脳』だ。
20日の日記に、心の理論の誤信念課題について書いた。他人について、その人の限定された知識から誤った推測をすることがある、ということを理解する能力。Aさんが見ていないところでBさんがAさんの持ち物を場所aから場所bへ移した。Aさんが持ち物を探す時、場所a、bのどちらを探すでしょうか、という問題に「場所a」と正しくこたえられるかどうかという課題。「わたし」はそれが場所bにあることを知っているが、aさんはそれを知らないということが理解できるか。これを理解するには一人一人それぞれの「こころ」が閉ざされていることを理解していなくてはならない。
ところで、「世界へと滲み出す脳」はリンチ論のタイトルなのだけど、リンチは、このことを本当は理解していないのではないかと思う。勿論、それを理解しているかのように振る舞うことがこの社会のなかで生きてゆくためには必須だということは理解しているだろう。しかし、本当のところは納得していないというか、受け入れていないのではないか。「こころ」はどこかで曖昧に混じり合って相互作用しているのではないかと、きっと感じていると思う。だから作品がああいう風になる(しかしそれは集合無意識的な調和的ヴィジョンではなく、滲み出した相互作用の場において繰り返し暴力が発生しているようなイメージ)。
そして、ぼくにとってはブログが、「閉じている」はずの頭のなかがいつの間にか世界へと滲み出してしまっていたかのような効果をもたらすものとしてあるのではないか。