●お知らせ。去年の十月に吉祥寺の「百年」で作品展示(「人体/動き/キャラクター」)を行いましたが、その時の柴崎友香さんとのトークイベントの模様が「百年」のホームページにアップされています。ぼくはこれ、かなり面白いと思うのですが。
http://www.100hyakunen.com/news/talkevent/201512281860
●『魔法の世紀』(落合陽一)をパラパラみていた。21世紀は魔法の世紀となるであろう、という本。「魔法の世紀」とは言ってみれば、あらゆる意味で「メディウム」が意識されなくなる世界と考えてよいのだと思う。
例えば20世紀は「映像の世紀」であった、と。映像は、いくら高解像度になり臨場感が増したとしても、フレームの内側、あるいは向こう側にあるものだ。我々は現在、パソコンやスマホを通じて膨大な情報と接続しているが、未だ、情報はモニターの向こう側にあり、現実の三次元空間でそれを使おうとすれば、メディアと現実の間を《反復横跳び》しなければならない(スマホで地図を見ながら目的の店まで歩く、というような)。しかし「魔法の世紀」においては、モニターの向こう側にあった情報が三次元空間の方へと《滲み出して》きて、情報と現実とがぴったりと重なった状態になるであろう、と。実際、あらゆるモノがネットワークと接続するようになれば、ネット端末メディアとしてのスマホは必要なくなるだろう。そして、物理的な現実空間が魔法化される。石を拾って投げるとか自転車に乗るとかいうような物理的な身体動作と、情報を検索する身体動作との間にある「違い」が意識されなくなる、という感じだろうか。
《(…)ここで重要なのは、各々の「場」の記述がコンピュータを用いると、音であれ電磁気であれ、そのアルゴリズムやデータ構造が等価になるという点です。しかも、この「場」の記述は、コンピュータでは簡単に扱えます。例えば、その基本的な処理として使われるのが、フーリエ変換によるホログラムの合成です。はっきり言ってしまえば、コンピュータにとってはどんな「場」であれども、単にフーリエ変換で扱うデータの周波数が異なるだけであり、ほとんどの物理量は同じ手法で解けてしまいます。》
何年か前のインタビューで川上量生が確か言っていたことだが、今まではネットの世界は「ネットのなか」で遊ぶオタクたちのものだったが、今後はリア充が「現実の生活」を豊かにするために使うツールとなるだろう、と。落合陽一の本ではそこからさらに一歩進んで、ネットがパソコンの外に出て(逆から言えば、現実がコンピュータに包摂されて)、ネットと現実がぴったり重なるであろう、となっている。魔法=現実であるような世界では、現実とネットのなかが重なるので、もはや「向こう側」としての「ネットのなか(フレームのなか)」が成立できなくなる。そして、すべてがリア充になる、のだろうか。
「向こう側」の成り立たない、魔法=現実である世界では、アーティストという存在は必要なくなるのではないか。これはぼくの考えでしかないが、広い意味での「作品」というのは、現実世界のなかに「別の世界」が可能であるための隙間をつくる、というようなものだと思う。例えば、多くのロボット開発者が「鉄腕アトム」や「機動戦士ガンダム」に影響を受けたとしても、「アトム」や「ガンダム」それ自身は、ロボティクスの技術そのものとは直接の関係はない。しかしそれらの作品によって成立した(メディアの先、あるいはその内にある)「向こうが側」が、人々に(人々を通して「現実」に)作用したと言える。しかし。魔法=現実となった世界では、「向こう側」をつくるということはそのまま「この世界を(直接)変える」ということになる。そして、「この世界(現実)」を直接的に変えるものとは、科学や技術であり、経済やビジネスであり、政治や権力闘争であろう。アートは一見、そのすべてに関わっているようでいて、そのどれに対してもごく弱い影響しか発揮できない。アートはあくまで、可能性と現実との間にあるクッションのような領域をつくることによって(つくることにこそ)意味があった(と、ぼくは考える)。
著者の落合陽一自身が、自分が研究者であることによって(メディア)アーティストであり得ているのだということを強調している。新しい技術(技術的装置、つまりこれがメディウムにとって代わる)をつくることが、つまりは作品をつくることであり、そうでなくては作品足り得ない、と。表層(イメージ)と深層(科学的、工学的技術・構造)は繋がっているのであり、深層の刷新がなければ表層の新しさも生まれない、と。ユーザーからメディウムへの意識が消え(あるいは、メディウムへの意識が深層の構造へと隠され)、魔法=現実となった世界では、魔法はそのまま現実であるのだから、フレームの向こう側にあるものとしての(ユーザーにメディウムやフレームが意識される)「作品」というものが成立しなくなる。というか、必要がなくなる、のだろうか。
(このことを落合陽一は、「文脈のゲーム」から「原理のゲーム」へのシフトだという風に語っている。ここで言う「文脈」は、虚構世界を成り立たせるためのフレーム――メディウムへの意識――であり、または作品が配置される外枠にある物語でもあると言える。対する「原理」とは、原初的な感覚の快不快であるとされる。つまり、文脈、フレーム、メディウムへの意識が消え、直接的に感覚の質が問われるようになる、と。)
人から聞いた話だけど、昔だったら詩や小説に興味をもつような若い女性の多くが、今では「かわいい女の子」を見るということだけでその欲求を満足させてしまう傾向があるらしい。ヘテロの女性が、性的な興味とは関係なく「かわいい女の子」に惹かれるとしたら、それがまさに、魔法であると同時に現実であり、「向こう側」の代理となり得る存在(というか現象)だからではないか。魔法の世紀は、このような、テクノロジーとは無関係な場面でも順調に進行中であると言えるのかも。
(しかしぼくはここで、リア充にはなれないオタクとして、やはり「向こう側」は必要なのだ、と言いたい。この世界(現実そのもの)とは別の、フレームで仕切られた、虚構世界、あるいは可能世界の必要性。現実的には、「魔法の世紀」が着実に進行し、今後、虚構を求めるオタクは再び長い冬の時代を迎えるのかもしれないが、少数派になったとしてもオタクは存在しつづけ、オタクとリア充弁証法は消滅しないのではないか、と。「魔法の世紀」のなかで「向こう側(可能世界)」を叫ぶオタク。)
●以上は、この本の第5章までの感想だ。おそらくこの本は、わかりやすく、受け入れられやすくするために、ずいぶんと押さえ気味に書かれていると思われる。本音をみせているのは最終章(第6章)くらいではないだろうか。正直、読んでいて、ふわっとしたというか、ぼやっとしたという印象でイマイチ切れがないと思っていたのだけど、最終章でその印象が覆された。現実空間が魔法化するとか、文脈ゲームではなく原初的な感覚を問題にするとか、口当たりの良いことしか言っていないと思っていたのだが、その柔らかい物腰の先にある徹底した非人間性のようなものが垣間見られて、あー、この人は危険な人なんだ、となって、ぐっと面白くなる。そういえば途中でも、さらっと「人間はコンピュータのミトコンドリアになる」とかいう酷いことを書いていたなあ、と遡行的に思い出す。
第6章を読んだ上でもまだ、「向こう側(=作品)」は必要なのだ、と言うことが出来るのか自信がなくなってくる。それくらいに面白い(ヤバい)。
《それ(人間中心主義では「ない」メディア意識)を示唆するMITの研究があります。20000Hz(20kHz)の時間解像度のカメラを用いて、ビデオ映像からその場に流れている音を復元する技術です。(…)彼らが開発したアルゴリズムを用いると、画面フレームごとに含まれるわずかな差分をフィルタリングして積分し、動きの変化を拡大させて捉えられるようになります。例えばBGMが流れている部屋で、その音が部屋にある観葉植物をわずかに振動させている様子をビデオカメラで撮影すれば、マイクを使わずにその振動からBGMを復元できてしまうのです。》
《(…)このビデオカメラが捉えた映像は、人間が眺めても何の意味もありません。しかし、モノの世界では人間の知覚できない領域において、モノ同士が互いに影響を及ぼし合っており、超高解像度のカメラを用いるとその影響関係を解析できるのです。》
《この超高解像度の世界では、光が音の表現に作用したり、音が光の表現に作用したりします。正確には、そもそも自然界はそのようにできているのに、単に私たちが自分たちの感覚器官の解像度にメディアの再現性を押し込めて、その領域を切り捨ててきただけなのです。したがって、この領域におけるコンピュータの制御は、物質世界そのもののプログラミングに近づいていきます。》
《その背景には、世界の構成要素である物質や、そこに作用する場などの性質が、コンピュータでかなり精密にコントロール可能になりつつあるという技術的なブレイクスルーがあります。つまり、デジタルかアナログかにかかわらず、すべてがコードによって記述されてゆく時代が来ようとしているのです。》
《それは、あらゆるものが計算機的な性質を秘めるようになる事態と言えるでしょう。人間も例外ではありません。身体の構成要素である物質は、構成や素材の水準から制御されるようになり、その一方で、環境側からのアクチュエーションも盛んに行われ、また人間はロボットの代わりに使用されるはずです。》
《今まではコンピュータを人間がどうやって操作して音楽を奏でるか、光を使って演出するかが、コンピュータエンターテイメントの中心でした。しかし、逆にどうやってコンピュータが人間を使って音楽を奏でるか、人間を動かしてディスプレイを作るかなども、これからは重要なテーマになってくるでしょう。》
●このような、徹底した、数理的、物理主義的、計算主義的で操作主義的な思考に抗して、それでも「可能世界は必要だ」と言えるだろうか。例えばその時、デランダの言うような「因果関係の非線形性」という概念が、どの程度の有効性をもち得るものなのだろうか。