●六本木の俳優座で『ヴァギナモノローグス』(作/イヴ・エンスラー、演出/平松れい子)。戯曲を翻訳している小澤英実さんから招待していただいた。
もともとは、二百人以上の、様々な年齢、人種、職業の女性に、自分の性器についての話を語ってもらって、それをもとに書いたテキストを、著者自身が一人芝居で演じたというものらしい。今回の公演では、それが六人の女優によって演じられている。さらに、サインアートプロジェクト、アジアンという「手話を芸術的なパフォーマンスとして発展させてゆく」という目的の団体によって企画されていて、声によって語られるセリフと、手話によるセリフとが交錯したものとなっていた。
なぜことさらヴァギナ(とクリトリス)なのか、ということが、ぼくには最後までいまひとつよくわからなかった。それについて語ることが禁止されているもの、あるにもかかわらず「ない」ということにされている(意識からも締め出されている)もの、そこには、抑圧があり、暴力的な圧力が加えられている。そのようなものについては、言葉による光が与えられ、その存在が可視化され、そこに生きられた物語が与えられる必要がある。そこは理解できる。女性にとって、自らの身体の一部であるヴァギナがそのようなものであった時代が確かに存在し、その力は現在でも作用しているのかもしれない。とはいえ、そのような主題って、今ではちょっと「古く」感じられないだろうか。ぼくは男性であり、女性に対して作用している様々な社会的、文化的な抑圧の複雑で繊細なニュアンスについてはほぼ何もわかっていない、身をもって感じているわけではない、ということが、まず前提としてあり、以下に書かれることは、その上でのことなのだが。
抑圧というのは関係によって強いられるもので、だから、ある非常に強い抑圧的な力が、女性に対し、ヴァギナを「自分の身体の一部でありながら、抽象的ななにか」であるかのように感じるように強いている磁場があるとすれば、その力への抵抗として、ヴァギナを自分自身の身体の一部として発見し、それについて積極的に語り、それを自らのものとして肯定する(自分自身と同一化する)ということに、一定の意味はあるように思う。しかしそれって、裏返せば、ペニス(の能動的な力)を自分自身の同一性の証しとしているような、マッチョなおっさん的な主体と同様の主体を、その裏返しとして作り出しているだけ、ということにならないだろうか。繰り返すが、それは抑圧的な力が非常に強力であるような場所では、抵抗として、挑発として、一定の意味をもつだろう。しかし、本来、関係によって強いられるものである抑圧にたいする抵抗が、ヴァギナという特定の身体器官をよりどころとするとき、ヴァギナこそ、私によって発見されるべき(抑圧された)ほんとうの私なのだ、という、きわめて自己愛的な物語に帰着しがちなのではないだろうか。実際、ここで語られるヴァギナについてのエピソード(モノローグ)の多くは、まるでヴァギナ(とクリトリス)がそれ自身として自己完結した、自分自身だけで十全な快楽を生むことのできる、完全な器官であることを、さまざまな迂回路を経て発見した、かのような話が多いように感じた(そして、そのような話と、女性に対して加えられる性的な暴力の話を安易に併置するのはどうなのかという疑問も感じた)。男性のまなざしによって、自身の性器を肯定的に受け入れることが出来たという話でも、その男性はまさに「鏡」としての役割しかもってなくて、じゃあその彼氏が脚フェチだったり、鎖骨フェチだったりしたらどうだったの、とか思ってしまう。そのような話からはぷっちゃけ、他人のマスターベーションの話を延々と聞かされているかのような、退屈さと息苦しさを感じてしまう。この作品の主題は「性的なもの」ではなく、あくまで、私の身体の一部でありながらも、抑圧され、ないものとされていた器官を(再)発見し、(再)認識し、そこに「物語(言葉)」を与えてやるのだ、というところにあると思われる。だがそのとき、「物語」や「比喩」がもっと豊かなものでないと、非常に単調な「私探し」の物語に帰着してしまう。
男性器が外に露出したものであることから「息子」と呼ばれ、分身でありながらも男性自身からはやや距離を置いて相対化されるものであるのに対し、女性器は内側に隠されているため「女性自身」と呼ばれ、まさにその女性のアイデンティティの中心(しかしそれは「穴」なので、空虚な中心であるのだが)であるかのように言われる。そのような言い方こそがまさに男性的な体制であるのだと思うのだが、その「穴」としての空虚な中心に、身体的な器官としての充実した実質や具体性(快楽や匂いや形態や言葉や物語)を与え、つまり光を当てて可視化し、ネガをポジに反転したところで、でもそれが「女性自身」である限りは、男性的な性器中心の体制下で、女性器を男性器化するということになってしまうのではないだろうか(繰り返すが、それが一定の条件の下では大きな意味をもつことは認めるのだが)。作品全体の傾向として、他者や関係を排除し、その依存を断ち切り、私の中心にあるものとしてヴァギナを発見するという感じになっていると思うのだが、しかしそれがなぜ、他の何かではなくて「ヴァギナ」でなくてはならないのか。ヴァギナについてことさら語られなければならないというのは、ヴァギナについて語ってはならないという抑圧の単純な裏返しでしかないのではないだろうか。(たとえば、なぜそれが「肛門」ではいけないのか、というところに別の抑圧を見つけ出すことは容易だし、そのように新たな抑圧の芽を次々指摘することもできるし、それについて次々と言葉を繰り出すことも可能だが、それをいくらやっても不毛だとしか思えない)。
●だがたとえば、自身のヴァギナに「依存する」ことを発見することで、DV男への「依存」から開放され、自立できるるとか、そういう次元では、もしかしたら現在でもアクチュアリティがあるのかもしれないのだが。
●二百人以上の、様々な年齢、人種、職業の女性に話を聞くという、まるで学術調査のような作品の作り方はどうなのだろうかという疑問も最初からあった。そもそもそれは「調査」としてはあままりに中途半端ではないだろうか。あるいは「作品」であろうとするのなら、そのような半端な公正さよりも、もっと限定的で偏った、特定の誰か(あるいは、特定の「ある関係」)についての物語がより深く追及されるべきなのではないだろうか。この作品はやはりどこかで政治的な正しさをその存立の基盤としているように思われるのだが、そうである限り、「正しさ」を基準に測られるれることになる。でもほんとうは、作品の正しさは、作品それ自身によって生み出され、作品そのものを根拠とするようなものであるはずだと、ぼくは思う。
●もしこの作品が、一人の女優による一人芝居として演じられていたら、ぼくには観ていてそうとう辛いものになったと思う。この作品の救いは、六人の女優によって演じられ、声としてのセリフと、セリフでもあり身振りでもある手話としてのセリフとが交錯する形で演じられたところにある。六人それぞれのキャラの違いや声の違い、舞台上でのそれぞれの人の配置や動きのバリエーション、手話によって語っている人と、声によって語っている人とが常にずれていること。手話の動きそのものとしての面白さ。ときには、声と手話として、同じ語りを語っていたはずの二人の女優が、いつの間にか掛け合いをはじめてしまったりもする感じ。そのような演出上の(拡散させ、同時多発的に進行させるような)工夫によって、息苦しい感じがかなり軽減されていたと思う。しかしやはり、主題が主題であるだけに、その演出上の工夫が、作品そのもののありようと深く密接に結びついているとは思えなかった。
あと、手話による芝居であることから、観客席には耳の聞こえないであろうと思われる人が数多くいて、そういう観客と、耳が聞こえるであろう観客とで、舞台上の出来事に反応するタイミングや、反応の仕方が違っているところは、とても新鮮だった。手話による拍手というのもはじめて知った。そういう意味で、ぼくにとっては、舞台の上よりも観客席でおきていることのほうが面白かったといえるかもしれない。
金田淳子さんとはじめてお会いした。荒木飛呂彦を読んだことがないといったら(ほんとはちょっとだけ読んだことがあり、挫折したのだが)、この自己責任で生きるべき現代社会でそんなことでいいのか、と説教された。