●昨日観た、ローリー・アンダーソン『時間の記録』(ICC)について。ローリー・アンダーソンの魅力は、アーチストとしてというよりもパフォーマーとしてのもので、なによりもその「語り」の芸にあるように思う。例えば「音楽」にしても、単調とも言える反復的なリズムがある「基盤」をつくり(それは常に人の息づかいや鼓動と繋がっているもので)、そこに魅力的な「語り」がかぶさるというものだ。昔、ローリー・アンダーソンが、最新流行のアーチストとして流行っていた頃、坂本龍一がラジオか何かで喋っていたのだが、坂本氏が、知り合いだか友人だかに、ローリー・アンダーソンが凄く面白いというような話をしたら、あんなのはヨーロッパの田舎の教会にいけば毎週やっているよ、と言われた、という。彼女のパフォーマンスには(とはいっても映像でしか見たことはないけど)、そのような意味での通俗性と普遍性のようなものがあり、それはコンセプトとか作品とか言う前の、彼女自身の個人的な魅力に負うところが大きいのではないか。やっていることはといえば、フルクサスの通俗化バージョンといったところだと思うのだけど、それを、劇場の出し物として十分に魅力的なものにしているのが、身体的な表現も含めた「語り」の魅力だと思う。彼女の80年代のメディアアート風の作品が、今観ても古びていない(と言うか、古びているのだけど魅力を失っていない)のは、そのためでもあるのだろう。
●もう一つ、ローリー・アンダーソンで面白いのは、彼女が、自分自身(私)や自分の身体に対して、ほとんど興味を持っていないようにみえるところだ。彼女にとって、私や私の身体は特権的なもの(固有なもの)ではなく、常に環境やテクノロジーとの繋がりのなかにしかない。それは、彼女の「パフォーマー」という中途半端なあり方にも関係していると思う。自分(の身体)を、ミュージシャンとして、ダンサーとして、美術家として、鍛え、つくりあげてゆくという感じではなく、音楽との関わり、ダンスとの関わり、美術との関わり(その都度のプロジェクトの関わり)のなかで、その都度自らの身体をやわらかく組み直してゆくという感じで、そこには「私」という堅い芯のようなものは希薄だ。例えばそれは「夢」というものとの関わりかたからも伺える。アートっぽい人(アートかぶれの人)は何故か「夢」が好きな人が多いのだが、彼女にとって夢は、深層心理や無意識からの呼びかけでもないし、超自然的なものからのメッセージでもなく、もっとクールにそっけなく扱われている。「制度の中の夢」という作品では、自らが公共的な場所へ出向いて、そこで眠り、そこで見た夢に、その場所からの影響がどの程度あるのかが確かめられる。ここでは夢そのもの(「私」の見る夢)が問題なのではなく、夢とそれを見る場所(環境)との関係が問題であり、そして何よりも、公共的な場所と「眠ってしまう」という行為によって「関係する」、ということが重要であるだろう。夢をみるという一見「内的」な営みと、それが見られる(眠る)場所(これは多くの人々が行き交う場所だ)という「外的」な環境との間にこそ、彼女の作品はある。そのことは、「ハンドフォン・テーブル」のような作品にも言えて、これは自分の掌のなかで音が鳴るのだし、頭を抱えるような姿勢でそれを聞くので、一見自分自身に入り込んでいてとても「閉じている」ような感触があるのだが、しかし実は、その音はテーブルの振動が腕を伝って掌のなかで音が鳴っているのだから、その音はテーブルとの関係によって生じているのだ。つまりテーブルが私とつながり、テーブルが私のなかに入り込んでくる。(ちなみに、「眠る」ことの安らかな安息のような感覚は、彼女のあらゆる作品に通低しているように思う。反復的で展開のない音楽だけでなく、プロジェクターから投射される映像を、ヴァイオリンの弓を「振る」ことで受け止め、スクリーンとする「ザ・ボウ」という作品にしても、きわめて素朴なサンプリングマシーンのような「デジタル・ヴァイオリン」にしても、視覚的・聴覚的な同一の刺激の反復がつくりだす単調なリズムが意識をやや退行させ、その退行した意識に働きかける魅力的な語りがさらに観客を武装解除させ、入眠する時の安息状態に近い「感覚」が生まれる。この「感覚」こそが彼女の作品の基調にあり、この感覚が彼女の作品の魅力の源泉であるのかもしれない。彼女の作品は、そのような「私」が安らかに武装解除された状態で、私をその外側の環境と結びつけているのだと言える。)