ジャコメッティ・大谷圭

●出かける時に持って出て、電車のなかでジャコメッティ展の図録を眺めた。実際に観た時にはあれだけ明確に見えていたものが、図録の写真からはあまり見えてこない。特に彫刻の作品は、写真だと全然わからない。それは、彫刻が三次元のもので、多方向から観られるものだから、平面として一方向からしか撮る事ができない写真では捉え切れない、というよりは、彫刻にとってのサイズの問題と、絵画にとってのサイズの問題の違いによるところが大きいように思う。フレームのなかで空間を成立させる絵画では、フレーム全体が見えていれば、図版に印刷されることで実際のサイズと多少かわっても(サイズが実感出来なくても)、そのフレーム内での関係は(縮小されようと拡大されようと)維持されているので、おおまかな感じは分るけど、現実の空間のなかに置かれる彫刻では、それを観る時のフレームは、絵画のように明確に(物理的に、キャンバスの大きさとして)あるわけではなくて、それぞれの作品によって、その作品がどの程度周囲の空間と絡んでいるかによって異なるので、(そして、どの程度周囲の空間と絡み、空間を取り込むか、ということと、サイズは、大きく関係しているので)、写真図版ではその辺りの情報が圧倒的に足りないのだ。(何センチ×何センチとか書いてあっても、だいたいのおぼろげな大きなを頭のなかで想像するのがやっとだし。)特に、ジャコメッティの、どんどん細くなり、小さくなってゆくような彫刻では、その小ささ、その細さは、実物を観て感じるより仕方がないような必然性をもった(取り替えのきかない)、細さや小ささであるのだから。観者は、一点、一点の作品ごとに、その彫刻がどのくらいの空間をフレームとして必要としているのかを計りつつ(それを教えてくれるのは、その作品自身以外にないのだが)、そのなかで作品を捉える必要がある。(例えば、近寄って細かい部分の表情を観る時でも、ただ細部に注目しているのではなく、その作品がフレームとしてもつ空間の大きさや動きを頭のどこかで意識しつつ、それとの関係を計るようにして細部を観るのだし。)
実際にある物は、空間のなかでしかるべき大きさをもち、重さをもつが、イメージはそうではない。イメージは拡大も縮小も可能で、例えば、小さくつくられた人体彫刻も、それが人体と同等の空間的なスケールをもちうる。だから彫刻は、それ自身としての具体的な大きさをもつと同時に、イメージとしての抽象的なスケール感をももつ。小さな人体彫刻も、決して小人の彫刻ではなく、普通に人体の彫刻である、というように。具体的な大きさは、それを観る人が自身の身体のサイズとの比較で感じるもので、イメージのスケール感は、その作品を構成している個々のパーツの関係性によって生まれるものだと、とりあえずは言ってみることが出来るだろう。その両者がそれぞれ周囲の空間との関係をもち、空間と絡み、空間を取り込むので、そのすべてを図版の写真から読み取ることは困難になる。(勿論、基本的には絵画でも同じなのだが、その空間のスケールを読み取る時、物理的にフレームが見える、ということが随分と助けにはなる。ただ絵画の場合、色彩やテクスチャーの再現性という意味では、印刷図版は絶望的に弱いのだけど。)
しかしこれはあくまで一般的な話で、こんなことを書いてもジャコメッティの彫刻には全然近づけてはいない。
横浜スタジアムの近くにあるZAIMという建物(もともと役所だった古い建物で、二年後に取り壊しが決まっていて、それまでの期間限定で、様々な文化的な催しに対して安く場を提供している、らしい)で、大谷圭という人の写真の展示を観た。写真は人の知覚とは基本的に異なるものだということを感じさせる。人の目にはけっしてこんな風に風景が見えることはないだろう。レンズに極めて近いところからずっと遠くまでがほぼ等しくピントが合っているので距離や空間がべったりと潰れ、その「隙間」のなくなった場所に様々な物が折り重なり、その表情が溢れかえっている。それらの表情たちは、「目」に対して「見る」ことを強要する。多分、絵画と写真が違うのは、この細部の表情の過剰が、人の手によってつくられたものではなく、実際の「ある」ものを撮っただけだということ、つまり、この過剰は直接的に現実に根拠をもつ、ということなのだろう。それは、いつもは見えていないが、現にこうなのだ、と、我々に告げている。撮影されているのはどれも、どこにでもあるような駅前の商店街のような場所で、誰でもがある程度親しみを感じるか、そうでなければ大した関心をもたないだろう思われるような場所だ。人は普段平然と、さも当然であるかのようにこのような風景のなかを通り抜けているだろう。しかしこのような写真を見せられると、我ながらよくもまあ、こんな場所をぼんやりと平気で歩くことが出来ているものだと、思うだろう。見ることは見ないことである、というような言い方は決して抽象的な話ではなくて、何かを見るために、それ以外の物を背景に後退させるということで、人はそのようにして適宜焦点を移動させつつ物を見ることで外界に対処しているのだが、もしその全てを律儀に同時に同等に見ようとしたならば、その風景は常に新鮮なままでありつづけ、そして、長年住み慣れ通い慣れた場所でさえ「親しみ」を感じることが出来なくなり、いつも極度の緊張を強いられてしまうだろう。人の神経はおそらくそんなことには耐えられないが、写真は、そのほんの一端を、さも当たり前のようにあっけらかん示してしまう。おそらくここに展示された写真たちが示しているのは、ただそれだけのことだろう。これらの風景は見飽きるほど見慣れたものであると同時に、人を決して安心させない刺をもつ限りにおいて新鮮でありつづけ、心地の良いまどろみが許されない苦痛と、過剰に見えてしまうことの快楽のなかで、それを見つづけることが強要される。
●その後渋谷へ。NHKの近くで見たサルスベリの花と、落書きの壁に落ちる木陰。(写真。http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/shibuya.html)