●昨日、日付を間違えてアップしてしまいました。『キック・アス』に関する日記は昨日の日付のところにあります。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20111228
●時々、『近代絵画』を読み返して、やはり小林秀雄はすごいと、改めて思う。それと同時に、小林秀雄を読むことはとても難しいとも思う。小林秀雄の文は、例えば、AであるとすればBであると言えて、一方、Cという事実もあり、BとCとを考え合わせればDという解が導き出せる、というような論理的な積み上げでは書かれない。対象の作品を具体的に記述、分析する手続きもほとんど踏まない。引用も、しばしば曖昧に地の文に溶け込んでおり、時には出典も明らかにされない。ところどころで見出させる断言的な言い切りの根拠も示されない。だから、一見すると(その「形式」だけを見ると)、目利きの放言(印象批評)を、彼の崇拝者である読者がありがたく頂戴する、という風に見えもする。丁寧に読みこんで、論旨をしっかりと追ってゆけば書かれていることが理解できるという書き方ではない。要するに、論証も、説得も、説明もしない。だから『近代絵画』という本は、近代絵画に関する入門書や解説書としては機能しない。勿論、通常「研究」と言われるものとも程遠い。
では、近代絵画をネタにして書かれた、小林秀雄という作者による文芸作品として読めばいいのかと言えば、そうでもないと思う。これはあくまで近代絵画について書かれた本であり、対象作品のより良い(適切な、深い)理解を目指したもので、だから、『近代絵画』という本だけをじっくりと百回読んだとしても、セザンヌゴッホの作品を観て、それをある程度感受できる人でなければ、そこに書かれていることは理解できず、それこそ空疎な放言や文学的な修辞として読むしかなくなる。いや、絵画を知らなくても、(思想家としての?)小林秀雄の読者であり、小林秀雄が一貫して扱っている問題系をある程度把握している人であれば、理解できないということはないのだろう。だがそれでも、小林秀雄の問題系がこの本ではなぜこのような展開をみせるのかということの必然性は、セザンヌゴッホの作品との関係のなかからしか見えてこないだろう。実際この本を読んで思うのは、小林秀雄はなんと絵をよく分かっている人なのだろうか、ということなのだ。だがそれは勿論逆側からも言えて、いくらセザンヌゴッホ(対象作品)を深く理解していたとしても、小林秀雄の問題系が見えていないと、その言葉は恣意的な断言や文学的修辞にみえてしまうかもしれない。だから、小林秀雄を読むことは本当に難しい。